2014年7月1日火曜日

出雲大社  イザナギ イザナミ  スサノオ   大国主命


出雲大社


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出雲大社(いづもおおやしろ)
Izumo-taisha honden.jpg
境内(千木のある建物が本殿)
所在地島根県出雲市大社町杵築東195
位置北緯35度23分55秒
東経132度41分16秒
座標: 北緯35度23分55秒 東経132度41分16秒
主祭神大国主大神
社格式内社名神大
出雲国一宮
官幣大社
勅祭社
別表神社
創建神代とされる
本殿の様式大社造
別名杵築大社
札所等出雲國神仏霊場1番
例祭5月14日 - 16日
主な神事神在祭など
地図
出雲大社(いづもおおやしろ)の位置
出雲大社(いづもおおやしろ)
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出雲大社(いづもおおやしろ、いづもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社名神大出雲国一宮で、旧社格官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社宗教法人出雲大社教の宗祠。


概要[編集]

正式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に「いづもたいしゃ」と読まれる[1]。二拝拍手一拝の作法で拝礼する[2]明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。

祭神[編集]

1142年康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された[3]。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり[4]神議が行われる[5](神在祭 旧暦10月11日 - 17日)[6]。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない[7]
そのような神集[8]への信仰から、江戸時代以降は文学[9]にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。

歴史[編集]

創建[編集]

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
  • 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
  • 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
  • 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
  • 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
  • 崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)
  • 垂仁天皇皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらにであったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
  • 659年斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[10]
伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。
また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。

祭神の変化[編集]

出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主大神であった[11]
やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた[11][12]ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[13]であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。
さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[14]。また、江戸時代初期には社僧寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。
ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[14]。これに併せて祭神は素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。

 



イザナギ(伊邪那岐命:男神)とイザナミ(伊邪那美:女神)の物語

神代七代の最後の神。イザナギとイザナミは、神話における初めての夫婦です。名称に使われている「イザナ」は誘うと言う意味で、「ギ」は男性を表しているといわれます。(漢字で書くと⇒邪那岐命、伊邪那美命)

イザナギとイザナミの国生みの際には、次のような会話がされたそうです・・少し意味深な会話です♪⇒「あなたの体はどんな風に出来ているのですか?」イザナミに尋ねると、「私の体は、一つだけ足らないところがあります」と応えました。イザナギは「私の体は、一つだけ余っているところがあります。私の余っているところと、貴女の足らないところをあわせてみたらどうでしょうか?」と誘うと、イザナミは恥らうように首を振っりました。二人は天御柱を回って、結婚する事になりました。しかし、その時に女性であるイザナミから声をかけてしまったため、骨の無いヒルコが生まれてしまいました(蛭子神:イザナギとイザナミが最初に生んだ子で、骨の無い奇形児が生まれた)。悲しんだ二人は、ヒルコを葦の船に乗せて流してしまうのです。(このヒルコは摂津国(兵庫県と大阪府の一部にまたがる地域)・西宮に流れ着いたとされます。平安時代末期になると蛭子は七福神の恵比須と同一視され、その崇拝の中心地が、兵庫県の西宮神社です)。

その結果を反省してあらためて相談した二人は、天津神に意見を聞く事にしたのです。天津神の助言にしたがって、今度は男であるイザナギからイザナミに声をかけることにしました。そして結ばれた二人は、本州、四国、九州など八つの島々を次々と生み出しました。


(原文では:)「成り成りて成り合わざる処」=女性器  「成り成りて成り余れる処」=男性器をさします。

「あが身は成り成りて成り余れる処一処あり」。かれ、このあが身の成り余れる処をもちて、なが身の成り合わざる処に刺し塞ぎて、国を生み成さむとおもふ。
⇒現代でいうセックス(性交)のおおらかな表現です。(古事記)


国生みを終え、さらに風、水、海、山、草など次々に神を生んでいく、その数35神に上りました。しかし、ホノカグツチを生む際、イザナミは陰部を焼かれ命を落としてしまうのです。怒ったイザナギはホノカグツチの首を切り落としてしまう、そこからまた何体かの神が生まれました。

イザナギは、出雲国(島根県)と伯耆国(鳥取県)の境にある「比婆山」にイザナミを葬りました。

自分の妻の死後もイザナミを恋しく思うイザナギは黄泉国へイザナミを迎えに行きます。しかし、イザナミは「もう自分はこの国の食べ物を食べてしまったのでもう戻れません!」と告げるのです。落ち込んでいるイザナギを見てイザナミは次の様にイザナミは慰めたのです⇒「黄泉国の神様に相談して、戻れるかどうかもう一度聞いてきます。その間、決して覗いたりしないで下さいね」。

しかし、かなりの時間が過ぎ、待ちきれなくなったイザナギはついに約束を破ってしまうことになります。そして、覗き見たのは・・・、なんと8柱の雷神が体に付きまとい、ウジの湧いたイザナミの死体ではありませんか!。恐ろしくなってイザナギは逃げ出してしまうのです。自分の夫に約束を破られ恥をかかされたしまったイザナミは、魔物とともに後を追いかけてくるではありませんか。身に付けているものを使って色々な食べ物に変え、逃走を続け、何とかヨモツヒラサカまで逃げ延びる事が出来ました。

そして近くにあった巨大な岩でヨモツヒラサカを塞いでしまったのです。岩をはさんで、イザナミが「お前の国の人間を一日1000人首を絞めて殺してやる」というと、「いとしい妻よ、それならば私は、一日1500の産屋を建てよう」とイザナギは言い返しました。ここに人間世界における「生と死」の起源が出来るのです。

⇒つまりは人間の死とは、たとえ病気で死のうが、寿命が尽きて死のうが、すべて最後はイザナミに首を絞められて死ぬのです。

黄泉国から帰ったイザナギは、日向の橋の阿波岐原で、体を清めました。そこから沢山の神が生まれるのです、左目をすすぐとアマテラスが、右目をすすぐとツクヨミが、鼻をすすぐとスサノオが生まれました

イザナギの最期の地は、『古事記』によれば、近江の多賀か淡路の多賀だと言われています。
■イザナギが黄泉の国から逃げ帰るとき、追いかけてくるイザナミや黄泉の国の魔物に、身に着けていた「くし飾り」や「くしの歯」を投げ捨て、ぶどうや、タケノコにかえて、それを魔物たちが食べているうちに黄泉の国の入り口までたどり着きました。最後に黄泉比良坂の下に生えていた3つの「桃」を投げつけると、ついには魔物は退散しました。
⇒今も、黄泉比良坂には一本のヤマモモの木があります。

この時イザナギは桃の実に向かって「お前は私を助けたように、葦原の中つ国のすべての生ある人間たちが苦しい目に遭っているときに助けるがよい」と仰せになり、桃の実に「オホカムズミ」と名前を付けられました。

http://homepage2.nifty.com/matsue-jo/matue_itou/izanagi_izanami_episode.html



スサノオ

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スサノオスサノヲスサノオノミコト)は、日本神話に登場するである。『日本書紀』では素戔男尊素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。

神話での記述[編集]


スサノオの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神
『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)が黄泉の国から帰還し、日向の橘の小戸の阿波岐原でを行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする(阿波岐原は江田神社の御池に比定される)。
『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)の間に産まれた三貴子の末子に当たる。その与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらす)、月を神格化した月夜見尊(月読命、つくよみ)とは少々異なっているため、議論の的となっている。 統治領域は文献によって異なり、三貴神のうち天照大神は高天原であるが、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、素戔嗚尊には夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。
『古事記』によれば、建速須佐之男命はそれを断り、母神伊邪那美のいる根之堅洲国に行きたいと願い、伊邪那岐の怒りを買って追放されてしまう。そこで建速須佐之男命は母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神は彼が高天原に攻め入って来たのではと考えて武装して彼に応対し、彼は疑いを解くために誓約を行う。
誓約によって潔白であることが証明されたとして建速須佐之男命は高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された(神逐)。
出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降った建速須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(八俣遠呂智)への生贄にされそうになっていた少女櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)と出会う。
建速須佐之男命は、櫛名田比売の姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治する。そして八俣遠呂智の尾から出てきた天叢雲剣(草那芸之大刀)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっている。)。その後、櫛から元に戻した櫛名田比売を妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(山陰地方にある島根県安来市)へ行きそこに留まった。
そこで、
八雲立つ  出雲八重垣  妻籠に  八重垣作る  その八重垣を
夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁(古事記)
やくもたついずもやえがきつまごみにやえがきつくるそのやえがきを(読み:ふりがな)
夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻(日本書紀)

と詠んだ。これは日本初の和歌とされる。
また、ここから「八雲」は出雲を象徴する言葉ともなった。その地で大国主命などを産ませ(『日本書紀』では大已貴神(おおあなむちのかみ)。『古事記』では大国主命は彼の6代後の子孫としている)
『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書第4では、天から追放された素戔嗚尊は、新羅曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(いそたける)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)後八岐大蛇を退治した。
また続く一書第5では、木がないと子が困るだろうと言い、体毛を抜いて木に変え、種類ごとに用途を定め、息子の五十猛命 、娘の大屋津姫命(おおやつひめ)、枛津姫命(つまつひめ) に命じて全国に植えさせたという。
大国主の神話において根の国の須佐之男命の元にやってきた葦原色許男神(あしはらしこを、後の大国主命)は、須佐之男命の娘である須世理比売(すせりひめ)と互いに一目惚れするが、須佐之男命は葦原色許男神に様々な試練を与える。葦原色許男神は須世理比売の助けを得ながらそれらを克服したので、須佐之男命は葦原色許男神に、須世理比売を妻とすることを認め大国主という名を贈った。

 


 


 

大国主

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出雲大社にある大国主の銅像
大国主(おおくにぬし)は、『古事記』『日本書紀』に登場するである。


神話における記述[編集]

日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』、『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。スサノオの後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主、幽事の主催者となり、顕界から姿を隠した[1]。すなわち、自決してこの世を去ったのであり、国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて欲しいと条件を出したことに天津神が約束したことにより、このときの名を杵築大神ともいう[1]
大国主を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある。

別称[編集]

大国主は多くの別名を持つ。このことについては、神徳の高さを現すという説[1]や、元々別の神であった神々を統合したためという説、等がある。
  • 大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神 - 根国から帰ってからの名。大国を治める帝王の意
  • 大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大汝命(おほなむち『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)
  • 八千矛神(やちほこ) - 須勢理毘売との歌物語での名。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
  • 葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを) - 根国での呼称。「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
  • 大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名
  • 大國魂大神(おほくにたま)・顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)- 根国から帰ってからの名。国の魂
  • 伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
  • 所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
  • 幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
  • 杵築大神(きづきのおおかみ)

妻・子孫[編集]


大国主の系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神、黄は性別不詳
大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。子供の数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれている。記紀においては以下の妻神がいる。 別名の多さや妻子の多さは、明らかに大国主命が古代において広い地域で信仰されていた事を示し、信仰の広がりと共に各地域で信仰されていた土着の神と統合されたり、あるいは妻や子供に位置づけられた事を意味している。

信仰[編集]

国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰される。縁結びの神としても知られるが、なぜ縁結びの神とされるのかについては諸説があり、大国主命が須勢理毘売命を始めとする多数の女神と結ばれたことによるといった俗説が一般的であるが、神社側は「祭神が幽世の神事の主催神となられ、人間関係の縁のみならず、この世のいっさいの縁を統率なさっているためである[1]」として、男女の縁のみならず、広く人と人との根本的な縁を結ぶ神であるとしている。他にも、元々この信仰そのものが古くにはないものであり、民間信仰としての俗説が広まったためだとする説や、古くは因幡の白兎、迫害からの蘇生、死後の幽界の主催神へ、といった神話から呪術神としての性格を持ち合わせていたことから、これが転化したのではないかとする説もある。
この他にも、中世には武士や刀鍛冶などから武神、軍神としても広く信仰されていた。記紀神話には直接的な武威の表現は見られないが、武を象徴する別名があることや、スサノオの元から手にした太刀や弓を用い国を広く平定したことなどから、そうした信仰になったと考えられる。このため武士政権が崩壊した明治以降現在も、武術家や武道家などから信仰されている。また江戸期には全国的な民間信仰の広まりにより、「大国」はダイコクとも読めることから同じ音である大黒天(大黒様)と習合していき、子のコトシロヌシがえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになった。このため比較的歴史の浅い神社などでは、大黒天が境内に祀られていることが多い。
また前述の呪術的、あるいは武力的な神格を用いて、所出不明の神などが祀られていた神社などの祭神に勧誘される場合も多く散見される。小さな集落などでは時に氏子などが断絶するなどで廃社となった神社もあり、こうした場合に本来の祭神が誰なのか不明となることが多く、こうした神社を復興させる際に本来祀られていた神の祟りなどを鎮めるといった意味合いから、こうした神格を持つ大国主命が配されることがある。

大国主を祀る主な神社[編集]

大国主を祀る神社は多い。
ほか、全国の出雲神社で祀られている。 また北海道神宮北海道札幌市)をはじめ北海道内のいくつかの神社では、「開拓三神」として少彦名神と共に祀られている。



 

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