たけもとのぶひろ(第17回)
60年安保で想い出すこと
大学の1回生の1年間だけ通った宇治の分校を、半世紀ぶりに訪ねて行ったときのことは、すでにこのブログで書いた。その文章の流れで書いておけばよかったものを、そのときはややもすると懐旧の思いにかられるあまり、あらかじめ書きたいと思っていたことを書かないままで終わってしまった。そのことが、ずっと気にかかっていた。あの訪問記はあれはあれで一つのことがらであり、今回書くこともこれはこれでまた別の一つのことのようでもあったし。二つを一つにするのは、正直言って、ぼくの力に余る感じがしたのだった。
今回、そのことを書こうと思う。じっくりと考えてみたいテーマは、さらにもう少し先にあるので、この文章は、そこへとたどり着くための廻り道なのかもしれない。が、道はつながっているはずだし、仮につながっていないかのように見えたとしても、結局はつなぐことができる。ぼくとしては、そういう思いで始めたいのだ。
書く機会をのがしたのは、60年安保のことだ。入学した1960年4月、安保闘争(http://ja.wikipedia.org/wiki/安保闘争)はすでに終盤を迎えていた。入ってみると、いきなり大騒ぎになっていた。そういうところか。新聞は “ブル新” (=ブルジョア新聞) とかなんとか言って、ろくに読みもしないのだから、何がどうなっているのか、今から思うと何もわかっていなかった。肝心の安保条約ですらきちんと読まずに、党派のビラやパンフから入手した、すぐに使えそうな単語を並べて、まくしたて、とにかく論敵をやっつける。その種の営みをくりかえしつつ、結局はそのノリでデモに出かけて気勢を上げるしかない。それが政治闘争だと思いこみ、その気になっていた。全体にその種のお粗末な話なのだが、この何十年間、忘れることのできない光景がある。まるで映画のシーンのように脳裏に焼きついている。それらのことを書きとめるところから始めよう。
まず最初に思い浮かぶのは、東京の闘争から帰ってきたばかりなのであろう、1人の活動家が分校の生協食堂の前の広場でアジテーションをしている。広場というより空き地と言った方がぴったりするその空間は、もちろんコンクリートなんかではない。土の地面だったから、草は生え放題、雨でも降ろうものなら、あちこちに水たまりが出来たものだった。アジテーターは2回生のT君、後々まで京大社学同系新左翼の “主” みたいな存在になっていく。T君のアジテーションを聞いているのは、ぼくとO君のふたりだけ。地べたにあぐらをかいて坐っている。O君とは、訪問記で書いたO君なのだから、出来過ぎた話のように聞こえるかもしれないが、本当なのだから仕方がない。
T君は “官憲のえげつない弾圧” というフレーズを何度もくりかえす。それだけしか言っていない。樺美智子さんを死に至らしめた6.15の国会突入デモに参加して帰ったばかりの、だからおそらくは16日の昼ごろの光景だったのではないだろうか、あれは。
このことを、ぼくは半世紀以上忘れずに覚えている。どうしてだろう? 安保闘争は怒りの興奮が極点に達していたのに、その興奮をナマで伝えようとするアジテーションを聞くのはぼくら二人だけだった。なんで二人だけだったのか? ぼく自身も、どこか醒めていて興奮しきれないものがあったような気もするし。国会デモの体験の有る無しが決定的で、かえってそれが邪魔になったのかもしれないし。あるいは、闘争そのものが本当はその程度の伝播力しか持っていなかったものかもしれないし。本当のところ、ぼくらの気持ちはどの程度のものだったのだろうか。
次に思い浮かぶ情景は、奇妙な話ではあるが、最初のそれとはまったく逆なのだ。安保反対デモの圧倒的に大きな量、その量から解き放たれて出てくる膨大なエネルギー――それが、ぼくの中でいくつもの像を結んでおり、消えてなくならない。とりわけ、60年安保闘争のピークだった「6.15デモ」「6.19デモ」の様子なんかは忘れがたい。
この時に限らず、京都のぼくら新左翼系の学生は、たいていは同志社大学に結集して決起集会を開き、そのあとデモ行進に移るのがパターンで、デモ・コースもだいたい決まっていた。今出川通を河原町通まで東へ進み、その交差点を右に曲がる。そして河原町通を四条まで南下し、その四条の交差点を東に左折する。と、突き当たりに鳥居の見える八坂神社がデモの解散地点だった。この経路は、京都の小さな繁華街の中心部のほとんどをカバーしており、その間をデモって歩けば、示威の目的は十分に達せられるところから、これがデモの定番コースになっていたのだと思う。
ぼくは大学に12年間いたから、このコースは何十回デモったか数えられないけれど、あの60年安保の「6.15デモ」とか「6.19デモ」とかは、ぼくらが新入生でデモに慣れていなかったこともあってか、特別な高揚感をともなった衝撃的な出来事として想い出すのだった。が、その一方で、想い出す度に決まって、あれはいったい何だったのか、みたいな問いが浮かんできて、いまだにどうしようもない困惑を感じてしまう。
60年安保の6月のデモでは、河原町通を御池、三条、蛸薬師、四条と南下してゆく間、ほとんど絶え間のないジグザグデモで盛りあがっていた。そして、いちばん賑やかな四条河原町で河原町通を捨てて四条通を東へと右折するわけだが、その直角に曲がるときの最大の交差点がジグザグデモの最大の見せ場だったと思う。蛇が何匹も渦巻いて走る様は、外から見るといかにも壮観だったのではないか。岸和田のだんじり祭りには遠く及ばないにしても。四条通に入ると、もうすぐ目の前にゴールの八坂神社が見えてくる。デモ隊は互いに手をつないで道いっぱいに広がって行進する。フランスデモと言うらしかった。まだ市電が走っていた時代で、今のようなクルマ社会ではなかったから、何台もの電車が上り下りの両線路上に立ち往生しているだけのことで、騒ぎにも喧嘩にもならず、おおむねのんびりしたものだった。
ジグザグデモありフランスデモあり、ということは、道交法を無視して道路をかなり長時間にわたって占拠しているのも同然だったから、もちろん警官は出動してはいた。が、見ているだけで、手は出さない。あるいは、出せなかっただけかもしれないけれど。どついたり蹴ったりパクったりの弾圧などとんでもない、そういう雰囲気だった。デモ隊側と警官隊側の対立は、騒ぎがおさまるまで一時棚上げにしておこうというような、予定調和というか城内平和というか、その種の暗黙の合意が、彼らとぼくらの間のどこかで交わされていたかのかもしれない。
警官だけでなく、野次馬など一般市民も多くの方々が、学生のデモ隊に向って、拍手をしたり声援を送ってくれたり、カンパしてくれたりした。学生デモを中心に、市民も警官もいっしょに「みんな」を構成しているかのような、そういうムードさえあった。
報道で見聞きする東京の国会構内突入デモや乱闘抗議集会のまともな暴力沙汰に比べて、京都の街頭デモはそれとは似ても似つかぬ平穏さが全体のムードであったから、なにかしら気恥ずかしいというか照れくさいというか、落ち着きの悪いというか居心地が悪いというか、そういう違和感みたいなものを、ぼくは感じていたのだと思う。
そのときはちょっと心に引っかかっただけのことだったのに、それがいつまでも残って、消えてなくならない。自分のなかの、そういう問いというか、疑問というか。
いつの頃からか、ひょっとしてアレは、やらせてもらっていたのかもしれない、否、やらされていたのかもしれない、と自分を問う声が聞こえてくるようになった。
かの山口二矢君なんかのウヨクの連中は時代から押しのけられ、道の端っこを小さくなって歩いていたであろうに、あのときのぼくらは、時代の主役、社会の多数派として、道全体に広がって我がもの顔で行進していたのだからなぁ。ゼンガクレンは時代の寵児でさえあったわけだし。なぜ、あのようにもてはやされたのだろうか。おかしいのではないか。権力側は自分たちの利益・自分たちの統治を貫徹するために、ぼくらに狙いを定めてうまく利用しようというような魂胆だったのではないか。支配の原則、いわゆる「ディバイド・アンド・ルール」というやつ、「分割して統治せよ」という。
これをこのまま公式通りにやるとどうなるのか。ブントを中心に新しい左翼の潮流をつくりだすことによって、社共・総評ら旧来の左翼を「分割」し、新旧左翼とそれらの諸分派のあいだに争いの種をまき、主導権を争わせることで左翼全体を「統治」する――そういう図式にならざるをえないのではないか。
関西ブント系の新左翼の活動家だったぼくらは、日本共産党とその支配下の民主青年同盟(民青)なんか、端からバカにしてかかっていた。日共民青の奴らは、アタマが悪いし、センスも悪いし、カッコも悪い、だいたいおもしろくない、生理的な嫌悪感すら感じる、などと口癖のように悪口を言っていた。ぼくらみんなが例外なく身につけていた、そういう見下した決めつけ方は、いったいどういうところから出てきたのであろうか。
だれかが意図的にバイアスをかけた情報を流し、ぼくらはただその思惑のままに動かされていただけかもしれず、今から思うと、そのアホさ加減は日共民青の奴らのそれと大差はなかったのかもしれないのであった。
いま書いたばかりのこと、つまり、ぼくらは権力の思惑のままに動かされていたらしいという事実を、この機会に、もう一つ別の視点から見ておきたいと思う。つまり、上述の、京都ローカルでの安保体験はそれとして置いておいて、同じ時の同じ問題を、東京中心の全国政治の視点から見直してみたいのである。という気になったのは、昨年の夏に出版された孫崎享氏の『戦後史の正体』(創元社)という本の60年安保のくだりを読んでいて、なるほどそうだったのかと目から鱗が落ちて闘争の全体像がはっきりと見え、得心がいく、そういう体験をしたからだ。孫崎氏の指摘・言説をたどりながら、考えてゆこう。
当時のぼくらゼンガクレンによると、日本帝国主義(ニッテイ)の自立支配は戦前の日本軍国主義を復活させるものでもあり、それを推進する岸首相は倒さなければならない、というのが大雑把なところだった。だから、デモ行進中、一群が「岸を!」と叫ぶと、それに呼応して別の一群が「倒せ!」と叫んだのであり、安保闘争も終盤に向えば向うほど、この「岸を!」「倒せ!」の掛け合いの方が、数量の上でも声量の上でも、本来の「安保!」「粉砕!」のそれよりも優勢になっていったらしい。本当は「安保粉砕!」のはずだったのに、それをあまり言わず「岸を倒せ!」になっていったのはどうしてなのか。
「安保粉砕!」のスローガンは、日本と米国の関係に関わっていて、それを日本の国益に利する方向で変更しよう、否、粉砕してしまおう、と主張している。
他方、「岸を倒せ!」のスローガンは、米国のことは問わない、米国とは関係ない、問題は日本の政治にある、日本自身の国内問題だ、と主張しているに等しい。
二つのスローガンは、まったく別のものであるばかりか、敵対さえしている。安保闘争という一つの運動の中で、同じ闘争主体が、まったく相容れない思想を主張するという、不可解なことがなぜ起こったのであろうか。いったい、だれが、どうやって路線の切り変えをやってのけたのか。前者から後者へと、みんなが見ている目の前で、まんまとスローガンをずらせて、すり替えたのはどこのどいつなのか。
問題を解くには、その鍵を握っている岸信介という政治家の言動を見てみる必要がある。孫崎氏によると、岸信介はCIAから多額の資金援助を受けていたし、米国追随一辺倒の政治家として知られていたけれども、驚くべきことに対米自立路線を模索していた、つまり米国の属国みたいなことはやめないといけない、と考えていたという。岸の考えをつぶさにみるために、孫崎氏の『戦後史の正体』からその発言を孫引きして示す。
・1956年12月、石橋内閣の外務大臣の任にあるときの認識。「旧安保条約はあまり
にもアメリカに一方的に有利なものだ。形式として連合国の占領は終わったけ
れど、これに代わって米軍が日本全土を占領しているような状態だ」。
・1957年4月19日、岸内閣、参議院内閣委員会での岸首相答弁。「安保条約、行政
協定は全面的に改定すべき時代にきている」。事実上いちばん重要なのは行政協
定であることを承知しているからこそ、岸はその改定に言及したのだ、との孫
崎氏のコメントがある。
・同57年6月訪米前、マッカーサー駐日大使(あのマッカーサー元帥の甥)との
会談で岸は自分の考えを伝えた。『岸信介証言録』によると、「(岸は)駐留米軍
の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多く
の米軍基地を、日本に返還することなども提案した。さらに岸は、10年後には
沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行
なった」。
・ 同年同月、岸首相訪米、ダレス国務長官に対する主張。「抽象的には日米対等といいながら、現行の安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利であって、まるでアメリカに占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないか」。岸は米国到着のその日に、ホワイトハウスにアイゼンハワー大統領を表敬訪問し、午後は女人禁制のヴァーニングトリー・ゴルフ場でプレイし、そのあと二人は差し向かいでシャワーを浴び、話をしたという。裸の付き合いはおそらく重要な意味を持ったにちがいなく、「正式な会談でアイゼンハワーはダレスに対し、「岸首相はせっかく遠くから来たんだから、彼の立場も考えてやれよ」と言って」いる。そう伝えられている。
・ こうして、日米首脳は旧安保条約を新しい観点から再検討することに合意したわけで、そこを起点に、上述の安保反対闘争へとなだれ込んでいったのだった。
たしかに日本の岸首相は時の米国大統領アイゼンハワーと裸の付き合いで仲良くはなった。しかし、だからといって、米軍およびCIAとしては、東西冷戦のまっただなかにある50年代の世界情勢を無視して、 “ハイそうですか、それでは岸さんの意にかなうようにさせましょう” と言うわけにはいかない。例によって陰の部隊の政治工作でもって岸を排除し、オレらの言うことを聞く奴に首をすげ替えるまでだ、と考えたのではないか。意中のその首もないわけではないし、権力の内部に手を突っ込んで誘導すれば仕上げは上々のはずだ、と。ところが、このケースに限っては、そうは問屋が卸さなかった。「岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった」。
となるとCIAとしては、意のままに動かすことのできる “手下の駒” を使って「反政府デモ」を組織させるしかない。つまり、日本国民の全員が見ている目の前で岸首相とその内閣を排除する。というか、国民自身の手によって自分たちの岸政府を潰させる。それ以外に手はないのであった。
では、米軍・CIAの “手下の駒” とはだれのことか。孫崎氏は、米国が仲を取りもつことによって立ち上げた「経済同友会」の面々をあげている。米国GHQの占領政策の大きな柱の1本、「財閥解体」がここで関係してくることは言うまでもない。
どのようにすれば “米国製の日本” を効率よく造りだすことができるかという、GHQの問題意識からすると、旧財閥を基盤とする戦前の実力派経済人はあまりにも日本的に過ぎるがゆえに、その実力を解体し、その存在そのものを追放しなければならない。そして、その、彼らを排除したあとの経済界の中心に、自分たちの言うことをよく聞いて忠勤に励む優秀な若手幹部を据え、彼らをメンバーとする “米国製の新しい財界指導部” をつくりだす必要があった。そうして生まれた「親米日本」財界指導部の名前を「経済同友会」という。 “米国の手先“ 同然のこの組織ができたのは、なんと1946年の4月、敗戦から1年も経っていない。
孫崎氏があげている当該組織の中心人物を念のために引き写す。まずは、岸内閣打倒後の池田内閣を支えた “財界四天王” の、櫻田武(日清紡社長、日経連会長)、水野成夫(経済同友会元幹事、産經新聞社長、フジテレビ初代社長)、永野重雄(創立直後の経団連の運営委員、日経連常任理事、富士製鉄社長、東京商工会議所会頭、日本商工会議所会頭、池田首相誕生に尽力)、小林中(日本開発銀行総裁、アラビア石油元社長)。そして「全学連への資金提供グループの中心にいた」二人、中山素平(日本興業銀行頭取、経済同友会代表幹事、通称「財界の鞍馬天狗」)とその親友の今里広記(日本精工社長、経済同友会代表幹事、通称「財界官房長官」)。あと、鹿内信隆、藤井丙午、堀田庄三、諸井貫一、正田英三郎、麻生太賀吉など。彼らのなかでも、とくに中山と今里がかの田中清玄と組んで、全学連に資金を提供し、岸内閣をぶっ壊した。「岸に任せていたんじゃ大変なことになる」と。
どれほどの額の資金が、いつ、どこで、だれを通して運動に流し込まれて、どういうふうに使われたのか、など詳細なことはわからない。それがわかったところで、いまさらどうのこうのという話にもなるまいし、だいいちぼくはその手の話に興味がない。ただ、彼らがどういう “思惑” のもとに資金を提供したか、どういう線を狙っていたのか、みたいなことには興味がないわけではない。それとても、しかし、資金の授受は岸内閣打倒の一点をめぐって行なわれたのであって、それ以上のものはなかったのではないか。そのために何をどうするとか、誰をどうするとか、そういう話の具体性はなにもなかったのだと思う。
ただ大量のカネを流し込んで運動を行くところまでもって行く、つまり制御できない無政府状態をつくりだしさえすれば、あとは運動そのものの中からおのずと答えが出てくるであろう。無責任に聞こえるかもしれないけれど、双方とも、肚の中はその程度のものだったのではないか。
そして事実、答えは出た。6月15日、デモ隊の一人、女子東大生・樺美智子さんの死亡がそれである。中山・今里はじめ ”財界四天王“ たちは、不謹慎ながら内心 ”よっしゃ!“ と叫んだのではないか。岸退陣の見通しが立ったからである。こうなると、全学連はお役御免だ。デモもやめてもらうということだ。実際に、その後の19日の国会包囲デモは数が多いだけで、新安保条約は “自然承認” され、早くも23日には岸首相の辞意表明の運びとなったのだった。
もちろん安保闘争はその時点で、すべてが終わる。7月に入ると授業なんかもほとんどなくなる。事実上もう気分は夏休みだ。活動家は「安保闘争を故郷へ」などともっともらしいことを言うけれど、ぼくらの気分はしらけるばかりだった。
ここで、6月17日の、きわめて異例な新聞七社共同宣言(産経、毎日、東京、読売、東京タイムズ、朝日、日本経済)「暴力を排し議会主義を守れ」について触れておこうと思う。
新聞社による情報操作には、三つの段階があった。第一段階では「安保反対」を煽って騒動にし、第二段階では「安保反対」から「岸政権打倒」へとテーマの軸足をずらせてデモの過激化を図り、最後の第三段階では岸退陣を見通したうえでデモの抑え込みに動いたのであった。その決め手となってデモの鎮火に当たったのが、上述の「七社協同宣言」だった。七社は、自らが煽って大きくしたデモを、かくなるうえは「デモ=暴力行為」との言い掛かりをつけて一掃する、と宣言した。曰く、「民主主義は言論をもって争われるべきである。その理由のいかんを問わず暴力をもちいて事を運ぼうとすることは、断じて許されるべきではない」と。
安保反対運動の幕引き役をつとめた、この七社共同宣言は、どこの誰が書いたのか、そしてそれに際してアメリカの意向はあったのかなかったのか。これらの問いに対して孫崎氏は、上記の書物のなかで答えている。
「朝日新聞の論説主幹、笠信太郎がこの宣言を書いた中心人物です。
笠信太郎はつぎのような経歴の持ち主です。
・朝日新聞ヨーロッパ特派員としてドイツにわたる。1943年10月スイスへ移動、
ベルンに滞在し、その地に滞在していたアメリカの情報機関OSS(アメリカ戦
略情報局、CIAの前身)の欧州総局長だったアレン・ダレス(安保闘争時のCIA
長官で、ダレス国務長官の弟)と協力して、対米終戦工作を行なう。
・戦後は1948年2月に帰国。同年5月論説委員、同年12月東京本社論説主幹。
米国が冷戦後、日本を「共産主義に対する防波堤」にしようというときに、東
京にもどり、その年から1962年まで14年間、朝日新聞の論説主幹をつとめてい
ます。帰国当時は占領下で検閲もあります。米国との関係が密接でなければ、
こうしたポストにはつけません」と。
さらに「アメリカの意向」について孫崎氏は、米国の歴史学者マイケル・シャラーの『「日米関係」とは何だったのか』(草思社)の中から、証言を引いている。三つあるなかの一つを次に示し、それに関する孫崎氏のコメントを紹介する。
・証言。「(CIAは)<友好的な、あるいはCIAの支配下にある報道機関>に、安保
反対者を批判させ、アメリカとの結び付きの重要性を強調させた」(<>は強調
ルビあり)。
・コメント。「これを見れば、朝日の笠信太郎など、各新聞の主筆や論説主幹たが、
マッカーサー駐日大使やCIAの意向をうけ、途中から安保反対者を批判する側
にまわったと見てよいと思います」。米国が圧力をかければ、悔しいかな、この
国は何でも言うことを聞くということだ。
同じプロセスをぼくらの側に引き寄せて言うと、時代の多数派になる、主役になる、ということは、時代の流れに流され、権力の思惑に呑みこまれかねない、そういう危険を引き受けることでもある。そういうことではないかと思う。
新左翼という政治潮流は、権力がつくりだして利用するだけ利用した。そして権力にとって利用価値がなくなったとき、潰した。生きていたのは60年代の10年間とその前後に1、2年を加えたくらい、せいぜい十余年というところが寿命だったのではないか。
その十余年の新左翼時代は経済こそ高度成長に恵まれはしたが、しかし、政治も社会も文化もすべてが米国の支配下にあった時代だった。それは要するに、「平和と民主主義とよりよき物質生活」がワン・パッケージになって人々の価値観を支配していた、そういう時代だったのだと思う。すべてをアメリカ風に――それが人々の合言葉であった時代。その風潮に対して無抵抗・無批判・無自覚であった点で、新左翼も国民の多くとなんら変わりはなかった。
新左翼は、先述のような生まれがそうさせたのであろう、旧左翼の進歩的文化人を中心とする戦後民主主義の運動に対して批判的で、反発ないし嫌悪にとどまらず、軽蔑の感情すら抱いていた。だが、しかし、だからといって、彼らのマルクス主義的影響力の圏外へと大きく飛び出したわけではなく、ましてや自分たち自身の固有の世界の在り処を探るなんてことは思ってもみなかった。
流れに逆らって杭を打ちこむことこそが求められており、それには従来の発想と方法を疑い、それらを相対化するところから始める必要があったと思うのだが、ぼくの場合、その種のことはかけらも考えていなかった。
さて、ここでなんとか、新しいテーマにつなげたいと思う。
今からおよそ半世紀前、総合誌「中央公論」は林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」が連載した(1963年9月号~65年6月号)。もちろん、大きな物議を醸した。なぜか?
第一には、「大東亜戦争」という言葉自体がGHQによって使用禁止語に指定されていた経緯があり、それについての議論も当然タブーとされていた時代があったからであろう。
第二に、大きな声を出して言ったり、ましてや活字にして論じたりするのがはばかられる、かの「大東亜戦争」は、日本軍国主義ファシズム権力が仕掛けた侵略戦争である。その悪の戦争を「肯定」する議論というものについては、そもそもの見識を疑って然るべきだ。そういう風潮が出来上がっていたからであろう。
第三に、著者の林房雄自身が、札付きのワルとして広く知られていたからであろう。彼自身が、『肯定論』の中で、「林房雄の復活」についての “忿懣の声” を収集している。曰く「過去の悪夢の記憶を身にまとった亡霊」。曰く「日本共産党を裏切った作家」。曰く「軍国主義のお先棒をかつぐという破廉恥な罪を犯した人物」。曰く「戦犯的人物」等々。
これらの雑音に関して林は歯牙にもかけず、ただ次のようにうそぶくのみだったらしい。
曰く「敗戦後20年、私は自分なりに、日本の敗戦痴呆症と戦ってきたつもりである。その自分なりの抵抗が、これほど左翼人と進歩人の憎悪と不快感をかきたて得たとすれば、これぞ文士の本懐というものであろう。マルクス風に言えば、「戦慄するものをして戦慄せしめよ」である」と。
次回から、林房雄著『大東亜戦争肯定論』(番町書房、正続750頁余、昭和39・40年)を考えてゆきたいと思う。
大学の1回生の1年間だけ通った宇治の分校を、半世紀ぶりに訪ねて行ったときのことは、すでにこのブログで書いた。その文章の流れで書いておけばよかったものを、そのときはややもすると懐旧の思いにかられるあまり、あらかじめ書きたいと思っていたことを書かないままで終わってしまった。そのことが、ずっと気にかかっていた。あの訪問記はあれはあれで一つのことがらであり、今回書くこともこれはこれでまた別の一つのことのようでもあったし。二つを一つにするのは、正直言って、ぼくの力に余る感じがしたのだった。
今回、そのことを書こうと思う。じっくりと考えてみたいテーマは、さらにもう少し先にあるので、この文章は、そこへとたどり着くための廻り道なのかもしれない。が、道はつながっているはずだし、仮につながっていないかのように見えたとしても、結局はつなぐことができる。ぼくとしては、そういう思いで始めたいのだ。
書く機会をのがしたのは、60年安保のことだ。入学した1960年4月、安保闘争(http://ja.wikipedia.org/wiki/安保闘争)はすでに終盤を迎えていた。入ってみると、いきなり大騒ぎになっていた。そういうところか。新聞は “ブル新” (=ブルジョア新聞) とかなんとか言って、ろくに読みもしないのだから、何がどうなっているのか、今から思うと何もわかっていなかった。肝心の安保条約ですらきちんと読まずに、党派のビラやパンフから入手した、すぐに使えそうな単語を並べて、まくしたて、とにかく論敵をやっつける。その種の営みをくりかえしつつ、結局はそのノリでデモに出かけて気勢を上げるしかない。それが政治闘争だと思いこみ、その気になっていた。全体にその種のお粗末な話なのだが、この何十年間、忘れることのできない光景がある。まるで映画のシーンのように脳裏に焼きついている。それらのことを書きとめるところから始めよう。
まず最初に思い浮かぶのは、東京の闘争から帰ってきたばかりなのであろう、1人の活動家が分校の生協食堂の前の広場でアジテーションをしている。広場というより空き地と言った方がぴったりするその空間は、もちろんコンクリートなんかではない。土の地面だったから、草は生え放題、雨でも降ろうものなら、あちこちに水たまりが出来たものだった。アジテーターは2回生のT君、後々まで京大社学同系新左翼の “主” みたいな存在になっていく。T君のアジテーションを聞いているのは、ぼくとO君のふたりだけ。地べたにあぐらをかいて坐っている。O君とは、訪問記で書いたO君なのだから、出来過ぎた話のように聞こえるかもしれないが、本当なのだから仕方がない。
T君は “官憲のえげつない弾圧” というフレーズを何度もくりかえす。それだけしか言っていない。樺美智子さんを死に至らしめた6.15の国会突入デモに参加して帰ったばかりの、だからおそらくは16日の昼ごろの光景だったのではないだろうか、あれは。
このことを、ぼくは半世紀以上忘れずに覚えている。どうしてだろう? 安保闘争は怒りの興奮が極点に達していたのに、その興奮をナマで伝えようとするアジテーションを聞くのはぼくら二人だけだった。なんで二人だけだったのか? ぼく自身も、どこか醒めていて興奮しきれないものがあったような気もするし。国会デモの体験の有る無しが決定的で、かえってそれが邪魔になったのかもしれないし。あるいは、闘争そのものが本当はその程度の伝播力しか持っていなかったものかもしれないし。本当のところ、ぼくらの気持ちはどの程度のものだったのだろうか。
次に思い浮かぶ情景は、奇妙な話ではあるが、最初のそれとはまったく逆なのだ。安保反対デモの圧倒的に大きな量、その量から解き放たれて出てくる膨大なエネルギー――それが、ぼくの中でいくつもの像を結んでおり、消えてなくならない。とりわけ、60年安保闘争のピークだった「6.15デモ」「6.19デモ」の様子なんかは忘れがたい。
この時に限らず、京都のぼくら新左翼系の学生は、たいていは同志社大学に結集して決起集会を開き、そのあとデモ行進に移るのがパターンで、デモ・コースもだいたい決まっていた。今出川通を河原町通まで東へ進み、その交差点を右に曲がる。そして河原町通を四条まで南下し、その四条の交差点を東に左折する。と、突き当たりに鳥居の見える八坂神社がデモの解散地点だった。この経路は、京都の小さな繁華街の中心部のほとんどをカバーしており、その間をデモって歩けば、示威の目的は十分に達せられるところから、これがデモの定番コースになっていたのだと思う。
ぼくは大学に12年間いたから、このコースは何十回デモったか数えられないけれど、あの60年安保の「6.15デモ」とか「6.19デモ」とかは、ぼくらが新入生でデモに慣れていなかったこともあってか、特別な高揚感をともなった衝撃的な出来事として想い出すのだった。が、その一方で、想い出す度に決まって、あれはいったい何だったのか、みたいな問いが浮かんできて、いまだにどうしようもない困惑を感じてしまう。
60年安保の6月のデモでは、河原町通を御池、三条、蛸薬師、四条と南下してゆく間、ほとんど絶え間のないジグザグデモで盛りあがっていた。そして、いちばん賑やかな四条河原町で河原町通を捨てて四条通を東へと右折するわけだが、その直角に曲がるときの最大の交差点がジグザグデモの最大の見せ場だったと思う。蛇が何匹も渦巻いて走る様は、外から見るといかにも壮観だったのではないか。岸和田のだんじり祭りには遠く及ばないにしても。四条通に入ると、もうすぐ目の前にゴールの八坂神社が見えてくる。デモ隊は互いに手をつないで道いっぱいに広がって行進する。フランスデモと言うらしかった。まだ市電が走っていた時代で、今のようなクルマ社会ではなかったから、何台もの電車が上り下りの両線路上に立ち往生しているだけのことで、騒ぎにも喧嘩にもならず、おおむねのんびりしたものだった。
ジグザグデモありフランスデモあり、ということは、道交法を無視して道路をかなり長時間にわたって占拠しているのも同然だったから、もちろん警官は出動してはいた。が、見ているだけで、手は出さない。あるいは、出せなかっただけかもしれないけれど。どついたり蹴ったりパクったりの弾圧などとんでもない、そういう雰囲気だった。デモ隊側と警官隊側の対立は、騒ぎがおさまるまで一時棚上げにしておこうというような、予定調和というか城内平和というか、その種の暗黙の合意が、彼らとぼくらの間のどこかで交わされていたかのかもしれない。
警官だけでなく、野次馬など一般市民も多くの方々が、学生のデモ隊に向って、拍手をしたり声援を送ってくれたり、カンパしてくれたりした。学生デモを中心に、市民も警官もいっしょに「みんな」を構成しているかのような、そういうムードさえあった。
報道で見聞きする東京の国会構内突入デモや乱闘抗議集会のまともな暴力沙汰に比べて、京都の街頭デモはそれとは似ても似つかぬ平穏さが全体のムードであったから、なにかしら気恥ずかしいというか照れくさいというか、落ち着きの悪いというか居心地が悪いというか、そういう違和感みたいなものを、ぼくは感じていたのだと思う。
そのときはちょっと心に引っかかっただけのことだったのに、それがいつまでも残って、消えてなくならない。自分のなかの、そういう問いというか、疑問というか。
いつの頃からか、ひょっとしてアレは、やらせてもらっていたのかもしれない、否、やらされていたのかもしれない、と自分を問う声が聞こえてくるようになった。
かの山口二矢君なんかのウヨクの連中は時代から押しのけられ、道の端っこを小さくなって歩いていたであろうに、あのときのぼくらは、時代の主役、社会の多数派として、道全体に広がって我がもの顔で行進していたのだからなぁ。ゼンガクレンは時代の寵児でさえあったわけだし。なぜ、あのようにもてはやされたのだろうか。おかしいのではないか。権力側は自分たちの利益・自分たちの統治を貫徹するために、ぼくらに狙いを定めてうまく利用しようというような魂胆だったのではないか。支配の原則、いわゆる「ディバイド・アンド・ルール」というやつ、「分割して統治せよ」という。
これをこのまま公式通りにやるとどうなるのか。ブントを中心に新しい左翼の潮流をつくりだすことによって、社共・総評ら旧来の左翼を「分割」し、新旧左翼とそれらの諸分派のあいだに争いの種をまき、主導権を争わせることで左翼全体を「統治」する――そういう図式にならざるをえないのではないか。
関西ブント系の新左翼の活動家だったぼくらは、日本共産党とその支配下の民主青年同盟(民青)なんか、端からバカにしてかかっていた。日共民青の奴らは、アタマが悪いし、センスも悪いし、カッコも悪い、だいたいおもしろくない、生理的な嫌悪感すら感じる、などと口癖のように悪口を言っていた。ぼくらみんなが例外なく身につけていた、そういう見下した決めつけ方は、いったいどういうところから出てきたのであろうか。
だれかが意図的にバイアスをかけた情報を流し、ぼくらはただその思惑のままに動かされていただけかもしれず、今から思うと、そのアホさ加減は日共民青の奴らのそれと大差はなかったのかもしれないのであった。
いま書いたばかりのこと、つまり、ぼくらは権力の思惑のままに動かされていたらしいという事実を、この機会に、もう一つ別の視点から見ておきたいと思う。つまり、上述の、京都ローカルでの安保体験はそれとして置いておいて、同じ時の同じ問題を、東京中心の全国政治の視点から見直してみたいのである。という気になったのは、昨年の夏に出版された孫崎享氏の『戦後史の正体』(創元社)という本の60年安保のくだりを読んでいて、なるほどそうだったのかと目から鱗が落ちて闘争の全体像がはっきりと見え、得心がいく、そういう体験をしたからだ。孫崎氏の指摘・言説をたどりながら、考えてゆこう。
当時のぼくらゼンガクレンによると、日本帝国主義(ニッテイ)の自立支配は戦前の日本軍国主義を復活させるものでもあり、それを推進する岸首相は倒さなければならない、というのが大雑把なところだった。だから、デモ行進中、一群が「岸を!」と叫ぶと、それに呼応して別の一群が「倒せ!」と叫んだのであり、安保闘争も終盤に向えば向うほど、この「岸を!」「倒せ!」の掛け合いの方が、数量の上でも声量の上でも、本来の「安保!」「粉砕!」のそれよりも優勢になっていったらしい。本当は「安保粉砕!」のはずだったのに、それをあまり言わず「岸を倒せ!」になっていったのはどうしてなのか。
「安保粉砕!」のスローガンは、日本と米国の関係に関わっていて、それを日本の国益に利する方向で変更しよう、否、粉砕してしまおう、と主張している。
他方、「岸を倒せ!」のスローガンは、米国のことは問わない、米国とは関係ない、問題は日本の政治にある、日本自身の国内問題だ、と主張しているに等しい。
二つのスローガンは、まったく別のものであるばかりか、敵対さえしている。安保闘争という一つの運動の中で、同じ闘争主体が、まったく相容れない思想を主張するという、不可解なことがなぜ起こったのであろうか。いったい、だれが、どうやって路線の切り変えをやってのけたのか。前者から後者へと、みんなが見ている目の前で、まんまとスローガンをずらせて、すり替えたのはどこのどいつなのか。
問題を解くには、その鍵を握っている岸信介という政治家の言動を見てみる必要がある。孫崎氏によると、岸信介はCIAから多額の資金援助を受けていたし、米国追随一辺倒の政治家として知られていたけれども、驚くべきことに対米自立路線を模索していた、つまり米国の属国みたいなことはやめないといけない、と考えていたという。岸の考えをつぶさにみるために、孫崎氏の『戦後史の正体』からその発言を孫引きして示す。
・1956年12月、石橋内閣の外務大臣の任にあるときの認識。「旧安保条約はあまり
にもアメリカに一方的に有利なものだ。形式として連合国の占領は終わったけ
れど、これに代わって米軍が日本全土を占領しているような状態だ」。
・1957年4月19日、岸内閣、参議院内閣委員会での岸首相答弁。「安保条約、行政
協定は全面的に改定すべき時代にきている」。事実上いちばん重要なのは行政協
定であることを承知しているからこそ、岸はその改定に言及したのだ、との孫
崎氏のコメントがある。
・同57年6月訪米前、マッカーサー駐日大使(あのマッカーサー元帥の甥)との
会談で岸は自分の考えを伝えた。『岸信介証言録』によると、「(岸は)駐留米軍
の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多く
の米軍基地を、日本に返還することなども提案した。さらに岸は、10年後には
沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行
なった」。
・ 同年同月、岸首相訪米、ダレス国務長官に対する主張。「抽象的には日米対等といいながら、現行の安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利であって、まるでアメリカに占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないか」。岸は米国到着のその日に、ホワイトハウスにアイゼンハワー大統領を表敬訪問し、午後は女人禁制のヴァーニングトリー・ゴルフ場でプレイし、そのあと二人は差し向かいでシャワーを浴び、話をしたという。裸の付き合いはおそらく重要な意味を持ったにちがいなく、「正式な会談でアイゼンハワーはダレスに対し、「岸首相はせっかく遠くから来たんだから、彼の立場も考えてやれよ」と言って」いる。そう伝えられている。
・ こうして、日米首脳は旧安保条約を新しい観点から再検討することに合意したわけで、そこを起点に、上述の安保反対闘争へとなだれ込んでいったのだった。
たしかに日本の岸首相は時の米国大統領アイゼンハワーと裸の付き合いで仲良くはなった。しかし、だからといって、米軍およびCIAとしては、東西冷戦のまっただなかにある50年代の世界情勢を無視して、 “ハイそうですか、それでは岸さんの意にかなうようにさせましょう” と言うわけにはいかない。例によって陰の部隊の政治工作でもって岸を排除し、オレらの言うことを聞く奴に首をすげ替えるまでだ、と考えたのではないか。意中のその首もないわけではないし、権力の内部に手を突っ込んで誘導すれば仕上げは上々のはずだ、と。ところが、このケースに限っては、そうは問屋が卸さなかった。「岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった」。
となるとCIAとしては、意のままに動かすことのできる “手下の駒” を使って「反政府デモ」を組織させるしかない。つまり、日本国民の全員が見ている目の前で岸首相とその内閣を排除する。というか、国民自身の手によって自分たちの岸政府を潰させる。それ以外に手はないのであった。
では、米軍・CIAの “手下の駒” とはだれのことか。孫崎氏は、米国が仲を取りもつことによって立ち上げた「経済同友会」の面々をあげている。米国GHQの占領政策の大きな柱の1本、「財閥解体」がここで関係してくることは言うまでもない。
どのようにすれば “米国製の日本” を効率よく造りだすことができるかという、GHQの問題意識からすると、旧財閥を基盤とする戦前の実力派経済人はあまりにも日本的に過ぎるがゆえに、その実力を解体し、その存在そのものを追放しなければならない。そして、その、彼らを排除したあとの経済界の中心に、自分たちの言うことをよく聞いて忠勤に励む優秀な若手幹部を据え、彼らをメンバーとする “米国製の新しい財界指導部” をつくりだす必要があった。そうして生まれた「親米日本」財界指導部の名前を「経済同友会」という。 “米国の手先“ 同然のこの組織ができたのは、なんと1946年の4月、敗戦から1年も経っていない。
孫崎氏があげている当該組織の中心人物を念のために引き写す。まずは、岸内閣打倒後の池田内閣を支えた “財界四天王” の、櫻田武(日清紡社長、日経連会長)、水野成夫(経済同友会元幹事、産經新聞社長、フジテレビ初代社長)、永野重雄(創立直後の経団連の運営委員、日経連常任理事、富士製鉄社長、東京商工会議所会頭、日本商工会議所会頭、池田首相誕生に尽力)、小林中(日本開発銀行総裁、アラビア石油元社長)。そして「全学連への資金提供グループの中心にいた」二人、中山素平(日本興業銀行頭取、経済同友会代表幹事、通称「財界の鞍馬天狗」)とその親友の今里広記(日本精工社長、経済同友会代表幹事、通称「財界官房長官」)。あと、鹿内信隆、藤井丙午、堀田庄三、諸井貫一、正田英三郎、麻生太賀吉など。彼らのなかでも、とくに中山と今里がかの田中清玄と組んで、全学連に資金を提供し、岸内閣をぶっ壊した。「岸に任せていたんじゃ大変なことになる」と。
どれほどの額の資金が、いつ、どこで、だれを通して運動に流し込まれて、どういうふうに使われたのか、など詳細なことはわからない。それがわかったところで、いまさらどうのこうのという話にもなるまいし、だいいちぼくはその手の話に興味がない。ただ、彼らがどういう “思惑” のもとに資金を提供したか、どういう線を狙っていたのか、みたいなことには興味がないわけではない。それとても、しかし、資金の授受は岸内閣打倒の一点をめぐって行なわれたのであって、それ以上のものはなかったのではないか。そのために何をどうするとか、誰をどうするとか、そういう話の具体性はなにもなかったのだと思う。
ただ大量のカネを流し込んで運動を行くところまでもって行く、つまり制御できない無政府状態をつくりだしさえすれば、あとは運動そのものの中からおのずと答えが出てくるであろう。無責任に聞こえるかもしれないけれど、双方とも、肚の中はその程度のものだったのではないか。
そして事実、答えは出た。6月15日、デモ隊の一人、女子東大生・樺美智子さんの死亡がそれである。中山・今里はじめ ”財界四天王“ たちは、不謹慎ながら内心 ”よっしゃ!“ と叫んだのではないか。岸退陣の見通しが立ったからである。こうなると、全学連はお役御免だ。デモもやめてもらうということだ。実際に、その後の19日の国会包囲デモは数が多いだけで、新安保条約は “自然承認” され、早くも23日には岸首相の辞意表明の運びとなったのだった。
もちろん安保闘争はその時点で、すべてが終わる。7月に入ると授業なんかもほとんどなくなる。事実上もう気分は夏休みだ。活動家は「安保闘争を故郷へ」などともっともらしいことを言うけれど、ぼくらの気分はしらけるばかりだった。
ここで、6月17日の、きわめて異例な新聞七社共同宣言(産経、毎日、東京、読売、東京タイムズ、朝日、日本経済)「暴力を排し議会主義を守れ」について触れておこうと思う。
新聞社による情報操作には、三つの段階があった。第一段階では「安保反対」を煽って騒動にし、第二段階では「安保反対」から「岸政権打倒」へとテーマの軸足をずらせてデモの過激化を図り、最後の第三段階では岸退陣を見通したうえでデモの抑え込みに動いたのであった。その決め手となってデモの鎮火に当たったのが、上述の「七社協同宣言」だった。七社は、自らが煽って大きくしたデモを、かくなるうえは「デモ=暴力行為」との言い掛かりをつけて一掃する、と宣言した。曰く、「民主主義は言論をもって争われるべきである。その理由のいかんを問わず暴力をもちいて事を運ぼうとすることは、断じて許されるべきではない」と。
安保反対運動の幕引き役をつとめた、この七社共同宣言は、どこの誰が書いたのか、そしてそれに際してアメリカの意向はあったのかなかったのか。これらの問いに対して孫崎氏は、上記の書物のなかで答えている。
「朝日新聞の論説主幹、笠信太郎がこの宣言を書いた中心人物です。
笠信太郎はつぎのような経歴の持ち主です。
・朝日新聞ヨーロッパ特派員としてドイツにわたる。1943年10月スイスへ移動、
ベルンに滞在し、その地に滞在していたアメリカの情報機関OSS(アメリカ戦
略情報局、CIAの前身)の欧州総局長だったアレン・ダレス(安保闘争時のCIA
長官で、ダレス国務長官の弟)と協力して、対米終戦工作を行なう。
・戦後は1948年2月に帰国。同年5月論説委員、同年12月東京本社論説主幹。
米国が冷戦後、日本を「共産主義に対する防波堤」にしようというときに、東
京にもどり、その年から1962年まで14年間、朝日新聞の論説主幹をつとめてい
ます。帰国当時は占領下で検閲もあります。米国との関係が密接でなければ、
こうしたポストにはつけません」と。
さらに「アメリカの意向」について孫崎氏は、米国の歴史学者マイケル・シャラーの『「日米関係」とは何だったのか』(草思社)の中から、証言を引いている。三つあるなかの一つを次に示し、それに関する孫崎氏のコメントを紹介する。
・証言。「(CIAは)<友好的な、あるいはCIAの支配下にある報道機関>に、安保
反対者を批判させ、アメリカとの結び付きの重要性を強調させた」(<>は強調
ルビあり)。
・コメント。「これを見れば、朝日の笠信太郎など、各新聞の主筆や論説主幹たが、
マッカーサー駐日大使やCIAの意向をうけ、途中から安保反対者を批判する側
にまわったと見てよいと思います」。米国が圧力をかければ、悔しいかな、この
国は何でも言うことを聞くということだ。
同じプロセスをぼくらの側に引き寄せて言うと、時代の多数派になる、主役になる、ということは、時代の流れに流され、権力の思惑に呑みこまれかねない、そういう危険を引き受けることでもある。そういうことではないかと思う。
新左翼という政治潮流は、権力がつくりだして利用するだけ利用した。そして権力にとって利用価値がなくなったとき、潰した。生きていたのは60年代の10年間とその前後に1、2年を加えたくらい、せいぜい十余年というところが寿命だったのではないか。
その十余年の新左翼時代は経済こそ高度成長に恵まれはしたが、しかし、政治も社会も文化もすべてが米国の支配下にあった時代だった。それは要するに、「平和と民主主義とよりよき物質生活」がワン・パッケージになって人々の価値観を支配していた、そういう時代だったのだと思う。すべてをアメリカ風に――それが人々の合言葉であった時代。その風潮に対して無抵抗・無批判・無自覚であった点で、新左翼も国民の多くとなんら変わりはなかった。
新左翼は、先述のような生まれがそうさせたのであろう、旧左翼の進歩的文化人を中心とする戦後民主主義の運動に対して批判的で、反発ないし嫌悪にとどまらず、軽蔑の感情すら抱いていた。だが、しかし、だからといって、彼らのマルクス主義的影響力の圏外へと大きく飛び出したわけではなく、ましてや自分たち自身の固有の世界の在り処を探るなんてことは思ってもみなかった。
流れに逆らって杭を打ちこむことこそが求められており、それには従来の発想と方法を疑い、それらを相対化するところから始める必要があったと思うのだが、ぼくの場合、その種のことはかけらも考えていなかった。
さて、ここでなんとか、新しいテーマにつなげたいと思う。
今からおよそ半世紀前、総合誌「中央公論」は林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」が連載した(1963年9月号~65年6月号)。もちろん、大きな物議を醸した。なぜか?
第一には、「大東亜戦争」という言葉自体がGHQによって使用禁止語に指定されていた経緯があり、それについての議論も当然タブーとされていた時代があったからであろう。
第二に、大きな声を出して言ったり、ましてや活字にして論じたりするのがはばかられる、かの「大東亜戦争」は、日本軍国主義ファシズム権力が仕掛けた侵略戦争である。その悪の戦争を「肯定」する議論というものについては、そもそもの見識を疑って然るべきだ。そういう風潮が出来上がっていたからであろう。
第三に、著者の林房雄自身が、札付きのワルとして広く知られていたからであろう。彼自身が、『肯定論』の中で、「林房雄の復活」についての “忿懣の声” を収集している。曰く「過去の悪夢の記憶を身にまとった亡霊」。曰く「日本共産党を裏切った作家」。曰く「軍国主義のお先棒をかつぐという破廉恥な罪を犯した人物」。曰く「戦犯的人物」等々。
これらの雑音に関して林は歯牙にもかけず、ただ次のようにうそぶくのみだったらしい。
曰く「敗戦後20年、私は自分なりに、日本の敗戦痴呆症と戦ってきたつもりである。その自分なりの抵抗が、これほど左翼人と進歩人の憎悪と不快感をかきたて得たとすれば、これぞ文士の本懐というものであろう。マルクス風に言えば、「戦慄するものをして戦慄せしめよ」である」と。
次回から、林房雄著『大東亜戦争肯定論』(番町書房、正続750頁余、昭和39・40年)を考えてゆきたいと思う。
http://meigetu.net/?page_id=300
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