出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミャオ族 / モン族 | |||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
伝統的衣装を着た花モン族。ベトナム、サパの市場にて。 | |||||||||||||||||||||
総人口 | |||||||||||||||||||||
1100万 | |||||||||||||||||||||
居住地域 | |||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||
言語 | |||||||||||||||||||||
ミャオ語 | |||||||||||||||||||||
宗教 | |||||||||||||||||||||
シャーマニズム、仏教、キリスト教他 |
名称[編集]
「ミャオ族」は自称ではなく漢民族による他称である。中国国内では「ミャオ」の呼称を使わざるを得ない。しかし、差別と結びついて、やや低く見られるニュアンスは伴う。中国以外の地域では主として自称モンの人々が居住しており、近年は「ミャオ/モン」と併記することが増えてきた。なお、現在のタイのランプーン付近にハリプンチャイ王国(11~13世紀)を建てた モン族は、全くの別系統の人々である。東南アジア研究者の著作などでは、必ずどちらのモン族に言及するか断りを入れるのが普通である。近年では、中国国外の人々は、総称をモンHmongと表記することが多い。歴史[編集]
ミャオ族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在のミャオ族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹煕5年(1194)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っているので、相互を結びつけようとする学者や知識人が多い。恐らく、ミャオ族の先祖は、宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定されるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。1995年頃からは、ミャオ族の祖先を蚩尤とする言説が急浮上した。これは、中国古代の伝説[1]に登場し、漢族の先祖とされる華夏民族の黄帝と涿鹿(たくろく、現河北省涿鹿付近)で争って(涿鹿の戦い)敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤と一緒に闘った九黎の子孫が南方に逃げて、後に「三苗」になったと説く。「三苗」は揚子江の中下流域にあったと推定し、北方からの漢族の圧力で、西南中国の山岳地帯に移動して、現在のミャオ族になったと主張する。しかし、伝説中の「三苗」と、古代の楚や呉を構成した人々と、現在のミャオ族との関連を実証する史料は存在しない。「三苗」「苗民」「尤苗」などの記述は秦漢以前の記録にとどまり、漢代の長沙・武陵蛮などを経て、宋代に至るまで、南方の人々は「蛮」と記されている。学問的には蚩尤とミャオ族の関係は否定される。[要出典]これは費孝通が唱えた「中華民族多元一体格局」(1988)の議論に基づいて、1990年代に「中華民族」の統合を強調する中央の学説や、1994年に中国全土に展開した漢族主体の愛国主義の運動に抗して現れた、ミャオ族の知識人による新たな対抗言説である。[要出典]
文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。敗北した蚩尤を非漢族の英雄に祀りあげ、ミャオ族の先祖は蚩尤であるとする考えは、ミャオ族の知識人の間では定説化して、反論することができなくなっている。ミャオ族は文字を持たず、口頭伝承によって歴史を語り伝えてきたが、まさにそれゆえに、実証的な歴史とは異なる独自の歴史意識を新たに作りあげようとしている。 [要
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F
入り口に注連縄
http://www.geocities.jp/ikokuhetabi/vietnam1004/25v.htm
0 件のコメント:
コメントを投稿