2014年1月20日月曜日

鼓楼のある村 ートン族・増衝村の人々ー







トン族が文字を持たず、口伝に頼っていたのは偶然ではないかもしれない。

なぜなら、この民族は長い歴史の中で迫害を受け続け、追われ追われて現在の山中に暮らすようになったと考えられているからだ。

文字に頼れば、それは迫害とともに失われるリスクも伴うであろう。しかし、口伝であれば、誰か彼かの頭の中に入っているのであるから、何かしらかの形で伝承を続けられる可能性も出てくる。



トン族は、漢民族から「洞人」「洞蛮」などの蔑称で呼ばれていた時代もあった。それは、トン族が洞(ほら)などの狭い空間に逃げ隠れして住んでいたからだとも言われている。

現在、トン族が暮らす森も、その広さが北海道の面積にも匹敵するという、とんでもなく深い山奥なのである。



もっと時代を下ると、トン族は「百越(越族)」と呼ばれた民の一派だったともいう。

百越とは、長江よりも南に住んでいた雑多な民族の総称である。彼ら越族の一部は、春秋時代に「呉」や「越」の国々を形成したが、秦により滅ぼされることになる。



トン族のルーツともされる「越族」。ここに日本民族との奇縁を見出す人々もいる。追われ追われた越族の一部が、海を渡って日本にまで流れ着いたという説もあるのだ。

山陰地方には、「越」のつく地名が多い(越浜など)。さらに、北陸地方は昔「越前」「越中」「越後」と呼ばれていた。



「呉越同舟」という言葉は、呉と越の国の仲の悪さを示すものであるが、じつは両者は同根の民族(百越)である。そして、両者ともに日本にやって来たとも考えられている。

「越」の呼称が残る日本海側は、もちろん越の国の人々。そして、「呉」の地名が残る九州・瀬戸内には呉の人々が住み着いたというのだ(例:広島県呉市)。

越人は朝鮮半島を経由して、呉人は東シナ海を直接日本まで渡ってきたとも言われている。



そう主張する人々の根拠は、越人が「稲作」という文化を持っていたということである。

もともとの日本列島に稲作はなく、そこには縄文人が暮らしていたと考えられている。日本に稲作がもたらされるのは弥生時代。そして、その稲作をもたらしたのは…、中国、もしくは朝鮮半島からやって来た百越(越族)の民ではないかというのである。

また、遺伝子分布統計によれば、Y染色体FR-02bという共通性も見つかっている(さらに細かく分類すれば、朝鮮民族と日本民族は異なる染色体を持つ)。
http://eikojuku.seesaa.net/article/248733083.html

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