★有料メルマガ「岩上安身のIWJ特報!」最新号を発行しました。米国へのプルトニウム返還、その政治的意味とは?
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以下、冒頭部分を特別公開!
 3月24日、53ヶ国34機関が参加し、核テロ対策について議論する核安全保障サミットに参加するため、安倍総理はオランダのハーグを訪問した。サミットの初日、安倍総理は、日本政府が米国から提供されていた高濃縮ウランとプルトニウムを米国に返還すると表明。同日、ホワイトハウスが、オバマ大統領と安倍総理の共同声明というかたちでこれを発表した。
 返還が決まったのは、茨城県東海村の日本原子力研究開発機構が、高速炉臨界実験装置(FCA)用に保管していた、すべての高濃縮ウランと331キロのプルトニウムである。
※日本、高濃縮ウランとプルトニウム返還で米と合意(ロイター、3月24日)

 IWJは、この核安全保障サミットの様子を、3月25日、26日の2日間にわたり、現地ハーグから中継した。
※2014/03/25【ハーグ】核安全保障サミット(1日目)
※2014/03/26【ハーグ】核安全保障サミット(2日目)
 核安全保障サミットで安倍総理は、各国の首脳に対し、次のように演説した。
 「日本は核廃絶に向けた世界的な核不拡散・核軍縮の推進のため、核セキュリティー強化に国内的にも国際的にも引き続き尽力する。これは世界の平和と安定にこれまで以上に貢献する『積極的平和主義』の実践でもある。
 東京電力福島第1原発事故を経験した日本は原子力安全と核テロ対策に役立つ教訓を各国と共有している。日本には核セキュリティー強化を主導する責任がある。私自身が先頭に立って進める。
 このたび日本は米国の協力の下、(日本原子力研究開発機構の)高速炉臨界実験装置で使用してきた高濃縮ウランと分離プルトニウムを全量撤去することを決定し、日米首脳による共同声明を発出した。これらの燃料を用いる予定だった最先端研究は代替燃料を使って行うことにも合意した。今後も核物質の最小化に取り組む」
※安倍首相演説要旨(時事通信、3月25日)
 このように安倍総理は、今回の米国に対するプルトニウム返還の意義について、「原子力安全と核テロ対策に役立つため」だと強調したのである。
 3月24日付けのニューヨークタイムズは、このプルトニウム返還について、” The announcement is the biggest single success in President Obama’s five-year-long push to secure the world’s most dangerous materials”(オバマ大統領の5年間にわたる非核化政策で最も大きな成功だ)と報じた。これに対し、安倍総理も一緒になって、「今回のサミットにおける最大の成果だという話があった」と語った。
※Japan to Let U.S. Assume Control of Nuclear Cache(New York Times、03.24)
 だが安倍総理の「サミットの最大の成果だ」というコメントは、実にトンチンカンなものであると言わざるをえない。というのも、国際的な監視の対象になっているのは日本であり、日本への不信の高まりがあるからこそ、プルトニウムの返還が求められたのだということを、当事国のトップでありながら、まるで理解していない様子だからだ。
 忘れてはいけないのは、今回のプルトニウム返還は、日本側が自主的に申し出たものではなく、米国側からの要求に従ったものだ、ということである。1月27日、共同通信が、「オバマ米政権が日本政府に対し、冷戦時代に米国などが研究用として日本に提供した核物質プルトニウムの返還を求めていることが26日、分かった」と報道。IWJが外務省に問い合わせると、対応した軍縮不拡散・科学部、不拡散・科学原子力課の首席事務官は、はぐらかすような言い方をしつつも、共同通信の報道を否定はしなかった。
※【米、プルトニウム返還を要求】オバマ政権が日本に  300キロ、核兵器50発分/背景に核テロ阻止戦略(共同通信、1月27日)
※【IWJブログ】米国から日本政府への研究用プルトニウム「返還」要求について、外務省「ノーコメント」
 今回、日本が返還に合意したのは、茨城県東海村に保管されている331キロのプルトニウムだが、実は日本には、全体で44トンのプルトニウムが既に蓄積されている。これは、長崎型原爆であれば、じつに4000発分に相当する量である。
 日本がこれほどまでのプルトニウムを蓄積することになったのは、日本政府がこれまで、原発で出た使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを抽出し、それを再び原発で燃料として使用する「核燃料サイクル」をエネルギー政策の柱として採用してきたからである。この核燃料サイクルは、原子力に関する技術を日本側が包括的に運用することを認めた、1988年の日米原子力協定によって可能となったものだ。
 現在、高速増殖炉「もんじゅ」の運転停止により、この核燃料サイクルの実現見通しは立っていない。にもかかわらず、今回の核安全保障サミットにおいて安倍総理は、核燃料サイクルの維持を閣議決定すら経ることなく国際社会に言明してしまった。
※首相 了承なく「推進」 核燃サイクル 与党協議の中(2014年3月21日 東京新聞)
 しかし、プルトニウムを生み出す核燃料サイクルの技術を維持することは、「兵器級プルトニウム」を蓄積し、核兵器を潜在的に保有することに、ほぼ等しいと言うことができる。
 そして、日本に核燃料サイクルの運用を認め、日本が潜在的に核兵器を保有することを可能とさせてきた日米原子力協定が、2020年の東京オリンピックを目前に控えた2018年に、満期を迎えるのである。仮に2018年、この日米原子力協定が更新されなければ、日本は原発の稼働はもちろん、これまで蓄積してきたプルトニウムの保有も含め、原子力に関するあらゆる政策と技術を放棄しなければならなくなる。
 私が2月3日にインタビューした、京都大学原子炉実験所の小出裕章氏は、今回の米国からのプルトニウム返還要求を、「明らかな政治的メッセージだ」と断言した。
 小出氏は、靖国神社への参拝や集団的自衛権の行使容認といった、安倍政権の暴走に眉をひそめる米国は、中国との間で政治的緊張を高める日本に対して、強い警告を発する政治的メッセージと受け取れる、と語った。
※2014/02/03 米国からのプルトニウム返還要求「明らかな政治的メッセージ」~岩上安身による京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏インタビュー
※【IWJ特報!127+128号】原発と核兵器技術の保有はコインの裏表~京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏インタビュー
 さらに、私が、2月4日にインタビューした、文芸評論家で早稲田大学教授の加藤典洋氏は、米国からのプルトニウム返還要求の政治的意味について、「日本から中庸が消えるのでは」と指摘した。
 日本は戦後、「原子力の平和利用」の名の下、原発を導入した。しかしそれは、「平和利用」という大義名分を盾に、原発から出るプルトニウムによって核技術抑止能力を持つための手段であった、というのである。加藤氏は、戦後の日本は、「原子力の平和利用」「非核三原則」という側面、核技術抑止という側面、そのどちらが日本の本音なのかを明らかにはしないという「あいまい路線」、すなわち「中庸」を取ってきた、と指摘。しかし、その「中庸」が今、消えつつあると言うのである。
※2014/02/04 日本から「中庸」は消えるのか 米国からのプルトニウム返還要求について考える ~岩上安身による文芸評論家・加藤典洋氏インタビュー
 「脱原発」と言った場合、原発から再生可能エネルギーへの転換など、日本国内のエネルギー需給の問題として議論されることがほとんどである。しかし、今回の米国によるプルトニウム返還要求から見えてくるのは、原発の稼働や核燃料サイクルの是非といった政策課題は、外交・安全保障上の問題と、極めて密接にリンクしているという厳然たる事実である。
 したがって、日本の原子力政策について考えるためには、外交の当事者から生の証言を得なければならない。私は2月12日、1988年に締結された日米原子力協定(包括協定)で、交渉の実務を外務省で担当した、遠藤哲也氏にインタビューを行った。遠藤氏の口からは、実務担当者にしか知り得ない交渉の生々しい舞台裏から、「核燃料サイクル」の今後の展望、そして日本の核武装の可能性まで、貴重な証言が次々と飛び出した。
 注意しなければならないのは、331キロのプルトニウム返還に応じたからといって、日本はいまだ核燃料サイクルの実現とそのコインの裏表の関係にある潜在的核保有を諦めたわけではない、ということである。3月24日、自民党と公明党は、近く閣議決定される見通しのエネルギー基本計画案に関するワーキングチームで、核燃料サイクルの柱である「もんじゅ」を存続させる方向で合意したのである。
※もんじゅ:自公が存続を条件付き容認で一致(毎日新聞、3月24日)
 安倍総理は、核安全保障サミット後の記者会見で、海外の記者から、「なぜ日本は大量の核物質を保有し続けるのか? 危険ではないか?」と問われ、「我が国の取り組みは、核セキュリティサミットの目的と完全に合致している」と、答えにもなっていない答えを披露した。安倍総理のこのはぐらかすような答弁からは、日本におけるプルトニウムの蓄積が、本心では、潜在的核保有のためであるということがうかがわれる。
※安倍総理、プルトニウム大量保有に関し弁明(テレビ朝日、3月26日)
 「原発を重要なベースロード電源と位置づける」との文言が盛り込まれたエネルギー基本計画が近く閣議決定されるとみられる他、原子力規制委員会が九州電力川内原発1.2号機の再稼働に向けた新規制基準適合審査を優先的に行うと発表するなど、安倍政権は、原発の再稼働に向けて突き進んでいる。
 安倍政権における、原発の再稼働や核燃料サイクルへの固執といったエネルギー政策と、靖国神社参拝や集団的自衛権の行使容認、武器輸出三原則の事実上の緩和といったタカ派的傾向は、核兵器の潜在的保有への欲望という点で、一直線につながっているのである。米国との交渉の実務を担当した遠藤氏の証言からは、そのことがありありと浮かび上がってくる。今、私たちに必要なのは、原発の問題を国内の問題から、外交・安全保障の問題へと、位置づけ直すことではないだろうか。
 今号では、遠藤氏へのインタビューに詳細な注釈を付した他、付録として、遠藤氏が2012年10月4日に行った日本記者クラブでの講演の文字おこしと、遠藤氏が2007年発表した論文「日本核武装論の問題点〜日本にとって現実的な政策オプションたりうるのか」を添付した。ぜひ、インタビューとあわせてお読みいただきたい。

◆軍事利用と平和利用〜原子力の両面性◆

岩上安身(以下、岩上)「ジャーナリストの岩上安身です。都知事選も終わり、次はどういうテーマで脱原発の問題を語っていこうかというときに、今日は大変重要なゲストをお迎えすることができました。
 本日話をおうかがいするのは、遠藤哲也さんです。遠藤さんは原子力委員会の委員長代理を務めた方です。つまり、原発を推進してこられた、その政策の中枢におられた方なのですね。
 遠藤さんは、1958年に東京大学法学部在学中に外交官試験に合格されて、外務省に入省後、在ウィーン国際機関政府代表部初代大使、国際原子力機関IAEA理事会議長、外務省科学審議官、それから日朝国交正常化交渉の日本政府代表を歴任されました。
 対北朝鮮問題、朝鮮半島の非核化についてもお詳しく、朝鮮エネルギー開発機構の担当大使、そして、ニュージーランド大使、原子力委員会の委員長代理を歴任されたということです。
 2011年3月11日の福島第一原発事故後は、独立検証委員会、いわゆる民間事故調(※1)の委員もお務めになりました。原子力の開発史に精通されている一方で、外務省の方ですから、日本の原子力政策がどのような国際関係の中に位置づけられているのか、対米関係の中ではどうか、対東アジア関係の中ではどうか、といったことも、今日はおうかがいしたいと思います。
 ここのところ、京都大学の小出裕章さん(※2)、それから早稲田大学の加藤典洋さん(※3)、さらには元内閣官房副長官補の柳澤協二さん(※4)と、ずっと連続してインタビューをしてきました。米国からプルトニウムの返還要求が来た(※5)という、この小さなニュースを入り口にして、米国が今の日本の政治の状態に対して大変な懸念を抱いているのではないか、日本はこのまま今までと同じような原子力政策を続けられるのだろうか、ということをテーマにしたインタビューシリーズをお送りしてきました。
 今日は、本当に当事者中の当事者にお話をうかがいます。遠藤さん、よろしくお願いいたします」
遠藤哲也氏(以下遠藤、敬称略)「はい、よろしくお願いします」
岩上「遠藤さんは外交官でありながら、ずっと原子力政策の中枢を歩いて来られたんですね。これは特異なキャリアの積み方ではないかと思われるのですが」
遠藤「これは、原子力の持つ性格そのものに由来しているところがあると思います。原子力というのはご承知のとおり、生まれた時から、マンハッタン計画(※6)に示されるように、軍事利用だったわけです。
 しかし、それと同時に、原子力発電などの平和利用としても使い得るわけですね。原子力発電については、いろんな影響があるのでしょうが、例えば、放射線利用という点では、医療ですとか、工業その他に使われています。
 つまり、原子力の場合、平和利用と軍事利用が背中合わせになっているということです。こういうところから、本来ですと科学技術庁の人とか、技術関係の人だけが扱ってもいいような原子力について、その原子力の持つ両面性ということから、私がいた外務省も関係するようになってきているのです」
岩上「なるほど。原発というのは、導入の経緯というのがなんといっても大きいと思います。というのは、日本が自前で平和利用のために、核開発あるいは原子力の開発を行ったわけではないからです。
 第二次大戦中、日本は核兵器の開発を行おうとしていました。米国もドイツもやるそうだということで、戦時中は朝日新聞や毎日新聞が、『夢の動力』『決戦の新兵器』等と言って、あからさまに報道していました(※7)。
 仁科芳雄博士(※8)が、『二号計画』というもので、東條英機の肝入りで、核兵器、核爆弾の製造研究に着手していました。しかし間に合わず、広島、長崎に先に投下されることになりました。
 日本も、核兵器という悪魔のような兵器の、悪魔のようなパワーを得ようとしていたんですね。もし、日本が先に開発していたら、よその国に投下していたかもしれません。たいへん恐ろしいことです。そういうものが、戦後いったん、GHQによって研究がストップされたと聞いています。
 この時代は、遠藤さんが直接関わった時代ではありませんが、外交安全保障、そして原子力の歴史ということでは、ご自身が関わりになる以前の歴史も当然ながらお勉強されたでしょうから、お話願えればと思います。
 GHQの締め付けがあり、しかしその後、『逆コース』ということが言われるようになりますね。日本を徹底的に民主化するということから、冷戦が深まりを見せ、米国は日本を『反共の砦』にしようということで、再武装させていきました。
 その中で、核政策の扱いも変化していったのではないでしょうか。初期の米ソ間で、国際原子力管理ということをやろうとしたけれど、両者の言い分が違って失敗をする、ということがあったと聞いています。核の冷戦の始まりですよね。その中で日本は、どのような位置に置かれることになったのでしょうか。こういった、1950年代の話をお聞きできればと思います」
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(※1)民間事故調:財団法人日本再建イニシアティブによる、福島第一原発事故の原因究明を目指して立ち上げられたプロジェクト。委員長は東京都市大学学長の北澤宏一氏。菅直人元総理の他、枝野幸男元官房長官、海江田万里元経産相、細野豪志元環境相、班目春樹前原子力安全委員会委員長など、原発事故当時、対応の中心にあった政府関係者からヒアリングを行い、2012年 3月、『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』を出版した。(一般財団法人日本再建イニシアティブ 福島原発事故調査委員会(民間事故調)HP【URL】http://bit.ly/1f8tbGb
(※2)小出裕章:京都大学原子炉実験所助教。2月3日、米国からのプルトニウム返還要求の意味について小出氏は、岩上安身のインタビューに応え、「靖国神社参拝など、安倍政権が暴走しているので、米国は日本の動向を危惧しているのではないか」と分析。「2018年に日米原子力協定の見直しがされるが、米国は日本に対する締め付けを強めるのではないか」と語った。(2014/02/03 岩上安身による京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏インタビュー【URL】http://iwj.co.jp/wj/open/archives/123411
(※3)加藤典洋:文芸評論家、早稲田大学国際教養学部元教授。著書に『アメリカの影』(河出書房新社、1985年)、『敗戦後論』(講談社、1997年)、『3.11 死に神に突き飛ばされる』(岩波書店、2012年)など。1月27日、共同通信が米国によるプルトニウム返還要求のニュースを伝えると、いち早くTwitterで独自の分析を連投ツイートした(【URL】http://togetter.com/li/621667)。加藤氏は2月4日、岩上安身のインタビューに応じ、「平和利用」と「核技術抑止」とを両立させる戦後日本の「中庸」路線が、安倍政権の暴走によって不可能になりつつあるのではないか、と懸念を表明。そのうえで、今後の「ありうべき中庸」路線として、「平和立国・核燃料サイクルの即廃棄・段階を踏んだ脱原発」という選択肢を提案した。(2014/02/04 岩上安身による加藤典洋氏インタビュー【URL】http://iwj.co.jp/wj/member/archives/17783
(※4)柳澤協二:元内閣官房副長官補、元防衛研究所所長、国際地政学研究所理事長。2月5日、柳澤氏は岩上安身のインタビューに応じ、現在の安倍政権の安全保障政策について、「国民の熱狂を戦争に向けて焚きつけているように見える。こういうナショナリズムの使い方は、国内的には心地よいかもしれないが、外交的には非常にまずい」と語り、中国や韓国だけでなく、米国も日本のナショナリズムの高揚に懸念を示していると語った。(2014/02/04 岩上安身による柳澤協二氏インタビュー【URL】http://iwj.co.jp/wj/open/archives/123724
(※5)1月27日、共同通信が「オバマ米政権が日本政府に対し、冷戦時代に米国などが研究用として日本に提供した核物質プルトニウムの返還を求めていることが26日、分かった」と報道した。IWJがこの報道の真偽について外務省の軍縮不拡散・科学部、不拡散・科学原子力課の首席事務官に問い合わせると、「核セキュリティ強化の中で、アメリカだけではなく、世界的に核テロの脅威となる物質をどんどん減らしていこうという大きな方向性があり、そのような中で出てきた話であると承知しておりまして、具体的な中身についてはコメントを差し控えたいと思います」と回答した。(【IWJブログ】米国から日本政府への研究用プルトニウム「返還」要求について、外務省「ノーコメント」【URL】http://iwj.co.jp/wj/open/archives/122289
(※6)マンハッタン計画:第2次世界大戦中、米国と英国が中心となり、科学者と技術者を総動員して原子爆弾の開発・製造を行った計画。科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマー。研究所はニューメキシコ州のロスアラモスに置かれた。1945年7月16日、米国は人類史上初の核実験に成功。それから1ヶ月も経たない8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆が投下された。(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1mpwLmV
(※7)杉田弘毅著『検証 非核の選択〜核の現場を追う』(岩波書店、2005年)に、原子力に関する当時の報道について、次のような記述がある。
 「ウラン235の巨大なエネルギーを『夢の動力』として初めて毎日新聞が紹介したのが40年7月。『マッチ箱一つのウラニウムでロンドン市全体を壊滅させる』とウラニウム爆弾を紹介する記事が朝日新聞に掲載されたのは44年3月だ。さらに朝日は44年7月2日には『決戦の新兵器』特集で『10グラムで都市爆砕』との見出しでウラニウム爆弾を詳細に取り上げ、『10グラムか15グラムもあれば、大都市の一つや二つ住民もろとも爆砕するのは朝飯前』と煽った。この頃、東大の研究室で爆発事故があり、新聞は『原子爆弾完成近し』との見出しで『原爆研究中の事故』と報じている」[10ページ]
 「44年7月号の大衆雑誌『新青年』(博文館)は日本から原子力航空機で太平洋を横断し原爆を投下する小説『桑港(サンフランシスコ)吹き飛ぶ』(立川賢)を載せた。この小説は台湾で産出したウランを使って台北大付属『理化学研究所』の年配の博士と若手研究員がウラン235の連鎖反応によるエネルギー利用に成功し、航空燃料と原爆を製造する物語だ。理研の正式名である『理化学研究所』を舞台となる台湾の研究所の名称に使い、仁科研の二号研究をほうふつさせる。小説のハイライトは原爆の投下シーン。若手研究員が乗った原子力航空機は太平洋を横断し、金門橋に到達、上昇しながら高度八千メートル以上の上空からサンフランシスコに原爆を投下、『電気花火のような青白い閃光が、市外の中央でパッと起こったかと思うと、驚天動地の一大轟音が起こり…。それっきり、朦々たる砂塵の中に桑港は見えなくなってしまった』と描いている。この辺は原爆がもたらす巨大な破壊力を予言している」[10-11ページ]
(※8)仁科芳雄:物理学者。1943年5月、仁科がウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性があるとの報告書を陸軍に提出。東條英機首相の肝いりで、「二号研究」と呼ばれる原爆の研究が開始された。日本の原爆研究は戦後、GHQにより解散させられるが、仁科は1946年に理化学研究所の所長に就任。同年、文化勲章を授与されている。(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1lfxCXa

◆日本が原発を導入した背景◆

遠藤「今、おっしゃられたように、占領中、つまり日本が独立するまでは、日本は軍事利用はもちろんのこと、平和利用であっても、原子力は研究してはいけない、ということだったのですが、独立した後は、そういった制約が取れたわけですね。
 そのとき、日本は原子力の軍事利用ということについて、広島、長崎の被爆体験、敗戦の体験等から、まず考えなかったと思うんです。それと同時に、米国も、日本が原子力の軍事利用を考えるなどということは、到底許しませんでした。したがって1950年代は、軍事利用ということは、日本からも米国のほうからも、全くありませんでした。
 しかし、核エネルギーは、資源のない日本にとってみれば、夢のような動力と言われていました。そこで、日本もなんとかして平和利用をしていこうということが、少しずつ出始めたわけですね。
 ただそれも、学会と、いわゆる実業界の態度は若干違っていました。学会は、被爆体験から、『軍事利用に走るようなことは絶対しちゃいかん。完全に平和に徹しなきゃいかん』ということを、日本学術会議などで議論したわけですね。
 しかし同時に、動力源である原子力についてはやはり、やっていかなくてはならないという声が、政界、あるいは実業界において非常に強くありました」
岩上「導入時に、社会の表面では、夢のエネルギーということが喧伝されたのだと思います。とりわけ読売新聞は、積極的にキャンペーンをしましたね。正力松太郎(※9)さんが出獄してきてから、一生懸命、平和利用のキャンペーンをやりました。
 しかしその一方で、政界の一部とか、官界の一部で、将来のことを考えたときに、日本はいつでも核武装できる準備というのを、コツコツとしておかなければならない、という考えがあったのではないでしょうか。疑われないように頭を低くしながら、核技術というものを蓄積していこう、と。こういう底意というものがあったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?」
遠藤「私は、それはその当時はなかったと思うんですよ。つまり、50年代、原子力のいわゆる黎明期においては、軍事利用を可能性として持っておきたいという感じは、なかったのではないかと思います。
 ただ、原子力というものには、軍事利用と平和利用が背中合わせになっているという、両面性があります。だから、結果論としてはあり得るのだと思うんです。しかし、50年代当時、はじめから原子力を軍事利用しようという意図は、なかったと私は思います」
岩上「しかし岸信介さんや、佐藤栄作さんも、非常に婉曲な言い方ですが、『日本は憲法上、核武装することは禁じられていない』と発言しています(※10)。要するに、核兵器保有の手足を縛られないよう、その都度発言していたのだと思います。
 あまり叩かれないようにしながら、水面下で核武装の可能性を保存しておこうというのは、あったのではないかと私は思うのですが」
遠藤「先ほどの繰り返しになりますが、原子力というのは、両面性があるものですからね。ですから、原子力利用では常に、軍事利用を抑え、平和利用に徹していくという方向を出さない限り、続けていけないのではないかと思います」
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(※9)正力松太郎:元読売新聞社社主、日本テレビ初代社長、第4代科学技術庁長官。正力は巣鴨プリズン出獄後、「原子力の平和利用」の名目のもとに原発の導入を推進し、読売新聞と日本テレビで大々的なキャンペーンを行った。米国のCIAが正力に「Podam」というコードネームを与えていたことが、米国立公文書記録管理局の文書から明らかになっている。(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1hdRGCm
(※10)1957年5月7日、当時の岸信介総理は、参議院内閣委員会で、次のような核武装論を展開した。「核兵器という言葉で用いられている核の兵器を、名前が核兵器であればそれが憲法違反だ、そういう性質のものじゃないのじゃないか。やはり憲法の精神は自衛ということであり、その自衛権の内容を持つ一つの力を備えていくというのが、今のわれわれの憲法解釈上それが当然できることである」。佐藤栄作総理は1967年、内閣調査室の外郭団体「財団法人・民主主義研究会」で日本の核武装の可能性について検討を行っていた。(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1gskVGm

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/132525