オルダス・ハクスリー
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オルダス・レナード・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894年7月26日 - 1963年11月22日)は、イギリスの作家。後にアメリカ合衆国に移住。彼はヨーロッパにおいて著名な科学者を多数輩出したハクスリー家の一員であった。祖父のトーマス・ハクスリーはダーウィンの進化論を支持した有名な生物学者、父は文芸雑誌を担当する文人、兄のジュリアン・ハクスリーもまた進化論で有名な生物学者で評論家。ジュリアンは1946年から1948年までユネスコ事務局長を務めている。 彼は小説、エッセイ、詩、旅行記など多数発表したが、小説によってその名を広く知られている。
※表記には、ハックスリー、ハックスリイ、ハックスレー、ハックスレイ、ハックスリ等がある。
母親のジュリアは1908年、オルダスが14歳の時に死去し、妹のロバータもその同じ月に別の事故で死去した。医者を志望しイートン校に入学したが、1911年に角膜炎を患い失明状態となり退学した。オルダスの一番上の兄、ノエルは1914年に自殺している。オルダスはその視力が原因で第一次世界大戦への兵役を免れることが出来た。視力は後に回復し、オックスフォード大学のベイリオル・カレッジに入学し、英文学と言語学を学んだ。
1932年の『すばらしい新世界』では、胎児の頃から生化学的に管理され、洗脳的な教育によって欲求が満たされ管理されていることに疑問すら抱かない市民が生きる管理社会であるディストピアを風刺した。
1937年に、眼の疾患の治療のためにアメリカ合衆国のカルフォルニア州に移住する。なお彼の著書 The Art of Seeing によると、彼の視力の回復には、ベイツ・メソッドの実践と、アレクサンダー・テクニークのレッスンを創始者フレデリック・マサイアス・アレクサンダーから受けたことが大いに役立ったそうである。
その後、神秘主義の傾向を強めていく。
ジョン・C・リリーもハクスリーの著作に強い影響を受けている。
1956年には、ハクスリーとの文通の際に、ハンフリー・オズモンドがサイケデリックという単語を作り出した[4]。
晩年には、これまでの神秘主義的な哲学やそのさまざまな分野を縦断する博学を凝縮し、『島』というユートピアを描いた小説を書いた。 自著の『島』にモクシャという解脱を誘発する物質が登場していたが、LSDの合成者である科学者のアルバート・ホフマンに『島』を贈呈するとき、「モクシャ剤の発見者ホフマン博士へ」というサインを添えた[5]。
1963年11月22日11時45分に[7]、ハクスリーはその死の床で、話すことが出来なかったため妻ローラに対して「LSD, 100 μg, i.m」(LSDを100マイクログラム筋肉注射して欲しい)と書いて渡した。彼女はそれに応えた。二度目にLSDを注射したときには、「軽くて自由、前に、上に」と言い、17時20分平穏に旅立った[7]。同日に発生したケネディ大統領暗殺事件の為、ハクスリーの死は影が薄くなった。
イーゴリ・ストラヴィンスキーは親しい友人であったが、当時作曲中であった「管弦楽のための変奏曲」をハクスリーの追悼のために捧げ、1965年に初演している。
※表記には、ハックスリー、ハックスリイ、ハックスレー、ハックスレイ、ハックスリ等がある。
目次
[非表示]生い立ち[編集]
サリーのゴダルミングにおいて、作家のレナード・ハクスリーとその最初の妻ジュリア・アーノルドの間に生まれる。母親のジュリアは1908年、オルダスが14歳の時に死去し、妹のロバータもその同じ月に別の事故で死去した。医者を志望しイートン校に入学したが、1911年に角膜炎を患い失明状態となり退学した。オルダスの一番上の兄、ノエルは1914年に自殺している。オルダスはその視力が原因で第一次世界大戦への兵役を免れることが出来た。視力は後に回復し、オックスフォード大学のベイリオル・カレッジに入学し、英文学と言語学を学んだ。
文芸作家として[編集]
第一次世界大戦後に20代で作家としてデビューした。1926年に来日している[1]。1932年の『すばらしい新世界』では、胎児の頃から生化学的に管理され、洗脳的な教育によって欲求が満たされ管理されていることに疑問すら抱かない市民が生きる管理社会であるディストピアを風刺した。
1937年に、眼の疾患の治療のためにアメリカ合衆国のカルフォルニア州に移住する。なお彼の著書 The Art of Seeing によると、彼の視力の回復には、ベイツ・メソッドの実践と、アレクサンダー・テクニークのレッスンを創始者フレデリック・マサイアス・アレクサンダーから受けたことが大いに役立ったそうである。
その後、神秘主義の傾向を強めていく。
神秘主義研究[編集]
ハクスリーは意識の拡張に関心を持っていた。1944年の著書『永遠の哲学』では古今東西の神秘主義者の思想を引用抜粋し、神的な実在を認識した人間の思想を研究した。 特にインドの哲人クリシュナムルティとは長年家族ぐるみで親しく交流し、深い影響を受けた。 精神科医のハンフリー・オズモンドにハクスリー自らが幻覚剤のモルモットとなることを申し出る[2]。 1953年の春、こうして幻覚剤のメスカリンによる実験が開始された[3]。 この時の主観と客観が合一する経験を記述したのが著書『知覚の扉』である。そして、その翌年1954年に『知覚の扉』が出版された。『知覚の扉』は、学者としての冷静な観察眼と作家としての筆力を軸に、仏教や神学や西洋哲学にも言及しながら絵画芸術の比較研究を行っている。『知覚の扉』は、60年代の意識革命の発端として評価が高く、ハーバード大学の幻覚剤研究者であるティモシー・リアリーの理論の主柱となり、リアリーの後継的な存在であるテレンス・マッケナにも大きく影響を与えた[3]。ジョン・C・リリーもハクスリーの著作に強い影響を受けている。
1956年には、ハクスリーとの文通の際に、ハンフリー・オズモンドがサイケデリックという単語を作り出した[4]。
晩年には、これまでの神秘主義的な哲学やそのさまざまな分野を縦断する博学を凝縮し、『島』というユートピアを描いた小説を書いた。 自著の『島』にモクシャという解脱を誘発する物質が登場していたが、LSDの合成者である科学者のアルバート・ホフマンに『島』を贈呈するとき、「モクシャ剤の発見者ホフマン博士へ」というサインを添えた[5]。
死とその後[編集]
1963年の終わりごろ、ハクスリーが危篤状態になったとリアリーに連絡をする[6]。 そして、リアリーはハクスリーに『チベットの死者の書-サイケデリック・バージョン』にもとづいてLSDのセッションをしてくれと頼まれたが、死の際にハクスリーの妻にそれをやるように頼んだ[6]。1963年11月22日11時45分に[7]、ハクスリーはその死の床で、話すことが出来なかったため妻ローラに対して「LSD, 100 μg, i.m」(LSDを100マイクログラム筋肉注射して欲しい)と書いて渡した。彼女はそれに応えた。二度目にLSDを注射したときには、「軽くて自由、前に、上に」と言い、17時20分平穏に旅立った[7]。同日に発生したケネディ大統領暗殺事件の為、ハクスリーの死は影が薄くなった。
イーゴリ・ストラヴィンスキーは親しい友人であったが、当時作曲中であった「管弦楽のための変奏曲」をハクスリーの追悼のために捧げ、1965年に初演している。
主な著作[編集]
小説[編集]
- 『クローム・イエロー』 - Crome Yellow (1921)
- 『道化踊り』 - Antic Hay (1923)
- 『くだらない本』 - Those Barren Leaves (1925)
- 『恋愛対位法』 - Point Counter Point (1928)
- 『すばらしい新世界』 - Brave New World (1932)
- 『ガザに盲いて』 - Eyeless in Gaza (1936)
- 『多くの夏を経て』 - After Many a Summer Dies the Swan (1939)
- 『時は停まるにちがいない』 - Time Must Have a Stop (1944)
- 『猿とエッセンス』 - Ape and Essence (1948)
- 『ルーダンの悪魔』 - The Devils of Loudun (1952)
- 『天才と女神』 - The Genius and the Goddess (1955)
- 『島』 - Island (1962)
短編[編集]
- 『リンボー』 - Limbo (1920)
- Mortal Coils (1922)
- Young Archimedes (1924) 神童
- Brief Candles (1930)
- 『二・三のグレス』 - Two or Three Graces
- 『リットルメキシカン』 - Little Mexican
- Jacob's Hands; A Fable (Late 1930s)
詩[編集]
- 『燃える車輪』 - The Burning Wheel (1916)
- Jonah (1917)
- 『青年の敗北』 - The Defeat of Youth (1918)
- Leda (1920)
- Arabia Infelix (1929)
- The Cicadias and Other Poems (1931)
旅行記[編集]
- 『路上にて』 - Along The Road (1925)
- 『ピラトはふざけて』 - Jesting Pilate (1926)
- 『メキシコ湾のかなた』 - Beyond the Mexique Bay
エッセイ[編集]
- 『オリーブの木』 - The Olive Tree
- The Art of Seeing (1942)
- Tomorrow and Tomorrow and Tomorrow (1952)
- 『知覚の扉』 - The Doors of Perception (1954)
- 『天国と地獄』 - Heaven and Hell (1956)
- Brave New World Revisited (1958)
- 『すばらしい新世界再訪記』 - 谷崎隆昭訳 雄渾社 (1966)
- 『素晴らしい新世界ふたたび』 - 高橋衞右訳 近代文芸社 ISBN 978-4-7733-7621-0 (2009)
- What are You Going To Do About It? (1936)
- 『平和主義者の道』南雲堂英和対訳学生文庫 - 北川悌二訳 南雲堂 (1962) ISBN 978-4523240228
哲学[編集]
- 『目的と手段』 - Ends and Means (1937)
- 『永遠の哲学 - 究極のリアリティ』中村保男訳、ISBN 4-89203-142-9。- The Perennial Philosophy (1944) ISBN 006057058X
伝記[編集]
- 『灰色の宰相』 - Grey Eminence
児童向け[編集]
- 『からすのカーさん へびたいじ』じんぐうてるお訳、ISBN 4-572-00302-5。 - The Crows of Pearblossom (1967)
脚注[編集]
- ^ Donald Richie, The Honorable Visitors, Charles E. Tuttle Company, 1994
- ^ マーティン・A.リー、ブルース・シュレイン 『アシッド・ドリームズ-CIA、LSD、ヒッピー革命』越智道雄訳、第三書館、1992年、53ページ。ISBN 978-4807492039。(原著 ACID DREAMS The CIA, LSD and the Sixties, and Beyond, 1985)
- ^ a b オルダス・ハクスリー 『知覚の扉』 河村錠一郎訳、平凡社《平凡社ライブラリー》、1995年9月、159-168頁。ISBN 978-4582761153。(原著 The Doors of Perception 1954 & Heaven and Hell, 1956)
- ^ レスター・グリンスプーン、ジェームズ・B. バカラー 『サイケデリック・ドラッグ-向精神物質の科学と文化』 杵渕幸子訳、妙木浩之訳、工作舎、2000年。28頁。ISBN 978-4875023210。
- ^ A.ホッフマン『LSD-幻想世界への旅』 堀正訳、榎本博明訳、福屋武人、新曜社、1984年、ISBN 978-4788501829。217頁。(原著 LSD-MEIN SORGENKIND, 1979)
- ^ a b ティモシー・リアリー 『フラッシュバックス』山形浩生ほか訳、ISBN 978-4845709038。269-270頁
- ^ a b レスター・グリンスプーン、ジェームズ・B. バカラー 『サイケデリック・ドラッグ-向精神物質の科学と文化』 杵渕幸子訳、妙木浩之訳、工作舎、2000年。366頁。ISBN 978-4875023210。
関連項目[編集]
- ユートピア/ディストピア(アンチ・ユートピア)
- ジョージ・オーウェル
- ジッドゥ・クリシュナムルティ
- レーゼシナリオ:『猿とエッセンス』の第二部がレーゼシナリオ
- ティモシー・リアリー
- ジョン・C・リリー
参考文献[編集]
- ローラ ハクスレー『この永遠の瞬間-夫オルダス・ハクスレーの思い出』大野龍一訳、コスモスライブラリー、2002年10月、ISBN 978-4434025556。
外部リンク[編集]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC
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