2013年10月24日木曜日

ウォール街大暴落 (1929年)      世界恐慌      暗黒の木曜日

ウォール街大暴落 (1929年)

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1929年の大暴落の後でウォール街に集まる群衆
ウォール街大暴落(ウォールがいだいぼうらく、Wall Street Crash[1][2])は、1929年に発生した株価大暴落である。その影響の広がりや期間を考慮に入れればアメリカ合衆国の歴史の中でも最大級の壊滅的な株価大暴落であった。単に株価大暴落(Stock Market Crash)、大暴落(Great Crash)ともいう。

概説[編集]

この株式の崩壊を表すために、「ブラックサーズデー」、続いて「ブラックフライデー」、「ブラックマンデー」および「ブラックチューズデー」の4つの段階が通常使われている。大暴落は1日の出来事ではなかったので、この4つの段階はすべて適切である。最初の暴落は1929年10月24日木曜日)に起こったが、壊滅的な下落は28日月曜日)と同29日火曜日)に起こり、アメリカ合衆国と世界に広がる前例の無い、また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展開した。株価大暴落は1か月間続いた。
経済学者や歴史家達は、この株価大暴落が、その後の経済、社会および政治の出来事にどのような役割を演じたかについて意見の一致をみていない。「エコノミスト」誌は1998年の記事で、「手短に言えば、世界恐慌は株価大暴落と共に始まったのではない」と主張した[3]。さらに大暴落の当時に、世界恐慌が始まったのかどうかは明らかではない。1929年11月23日、「エコノミスト」誌は、「大変深刻な株価大暴落が工業生産の大半が健全でありバランスが取れていたときに工業に深刻な後退を生むだろうか?...専門家は、幾らかの後退はあったに違いないが、それが長引くものか、全体的産業不況を生み出す期間まで続く必要があったかを証明する十分な証拠が無いことに同意している。」と問いかけた。しかし、「エコノミスト」誌は、「幾つかの銀行は疑いも無く破綻し、また今後も予測されている。このような状況下で、銀行は商業と産業の資金を繋ぐ余力があるだろうか?ないだろうか?銀行の位置付けは疑いも無くこの状況下のキーであり、何が起ころうとしているかは霧が晴れるまで適切に評価できるはずがない」とも警告した[4]
1929年10月の大暴落は、アメリカ合衆国における不動産価格の低落時期(ピークは1925年だった)に来ており、工業化諸国における経済後退時期である世界恐慌に導く一連の出来事の始まりに近い時であった。

大暴落以前[編集]

大崩壊の当時、ニューヨーク市は世界有数の大都市となり、そのウォール街は世界をリードする金融センターの一つになった。ニューヨーク証券取引所は世界でも最大級の株式取引所だった。
大暴落に先立つ10年間、すなわち狂騒の20年代[5]は、都市における富と過剰の時代であり、投機の危険性について警告があったが、多くの者は市場が高い価格水準を維持できるものと信じた。1920年代半ばから上昇を続けたダウ工業株平均は、1928年から1929年にかけて急速に上昇し、アメリカの一部に株投資ブームを起こしていた。1929年の夏以降には工業指標は下向きはじめ、株高を危ぶむ声もあったものの、ウォール街や経済学者の中にはこれを一蹴する意見もあった。大暴落の直前、経済学者アーヴィング・フィッシャーは、「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」という有名な予言を行っていた[6]。しかし、大きな強気相場の中での楽観論と金融上の利益は、ニューヨーク証券取引所の株価が崩落したブラックサーズデーに雲散霧消した。この日に落ちた株価はさらにまるまる1か月間前例のない率で落ち続けた[7]
ブラックチューズデーまでの数日間、市場は非常に不安定だった。売り先行と大量取引の間に短時間価格上昇と快復の期間がちりばめられた。経済学者で著作家のジュード・ワニスキーは後に、当時アメリカ合衆国議会で論じられていたスムート・ホーリー法の成立見込みとこれらの変動を関連付けた[8]。大暴落後、ダウ工業株平均1930年初期に回復したが、反転して再度暴落し、1932年の大きな下げ相場の中で最安値に達した。1932年7月8日、ダウ工業株平均は20世紀始まって以来の最安値となり、1954年11月23日まで1929年に達した水準まで戻ることはなかった[9][10]
1929年央に株を購入し持ち続けていた者は誰でも、株価が回復するまでにその成人してからの人生の大半を費やすことになった。
リチャード・M・サルスマン[11]

経過[編集]

ダウ工業株平均が6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年9月3日に最高値381.17を付けた後で[12]、市場は1か月間急降下し、下げ初めから見れば17%下落した。
株価はその後の1週間以上にわたって下げ幅の半分を回復したが、その直後にまた下落するだけだった。下げ基調は加速し、大暴落初日となった1929年10月24日の、いわゆるブラックサーズデーを迎えた。その日は当時の記録破りとなる1,290万株が取引された。
同日(24日)13時、ウォール街の幾人かの指導的銀行家が取引所での恐慌と混乱に対する解決策を見つけるために落ち合った[13]。この会合にはモルガン銀行の頭取代行トマス・W・ラモン、チェイス国定銀行頭取のアルバート・ウィギン、および国定ニューヨーク・シティバンク社長のチャールズ・E・ミッチェルが出ていた。彼らは取引所の副会頭リチャード・ホイットニーを彼らのために働く者として選出した。ホイットニーはその背後に控えた銀行家達の財務力をもとに、市場価格よりもかなり高い価格でUSスチール株を大量に購入する注文を出した。トレーダー達が見守る中で、ホイットニーは続いて他のブルーチップ(優良株)銘柄に同じような買い注文を出した。この操作は1907年の恐慌を終わらせた戦術に類似しており、その日の崩落を止めることに成功した。しかし、この時に一息ついたものの一時的なものに過ぎなかった。
市場が休みの週末、ウォール街のパニックがアメリカ合衆国中の新聞で報道された。週明けの28日(月曜日)、最初の「ブラックマンデー」[14]にはより多くの投資家が市場から引き上げ、その日のダウ工業株平均は13%下落するという記録的なものになり、再び大規模な株価崩壊が起こった。翌29日(火曜日)、壊滅的な株価崩壊が起こった「ブラックチューズデー」には約1,600万株が取引された[15][16][17]。この日の取引高は1968年に破られるまで40年間近くも最高記録となっていた[16]。著作家のリチャード・M・サルスマンは、ハーバート・フーヴァー大統領が懸案のスムート・ホーリー法案に拒否権を発動しないという噂が飛び交っており29日に株価は更に暴落したと記した[11]ゼネラルモーターズの創業者ウィリアム・C・デュラントはロックフェラー家の家族や他の金融界の巨人達と一緒になって、大衆に市場における彼らの自信を示すために大量の株式を買い支えたが、その努力も崩壊を止めることはできなかった。その日にダウ工業株平均はさらに12%下落した。ティッカーテープ機(証券市場の情報を電信網によって遠隔地に伝える機械)はその日の19時45分ころまで止まらなかった。市場はその日だけで140億ドルを失い、1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多いものだった[18]
ダウ・ジョーンズ工業株平均[19]
日付下げ幅下落率終値
1929年10月28日-38.33-12.82260.64
1929年10月29日-30.57-11.73230.07
一時的な底値は11月13日のことであり、ダウ工業株平均は198.60で終わった。市場はこの時点から数か月間回復し、1930年4月17日には294.07という2番目の高値を付けた(いわゆるdead cat bounce)。市場は1931年4月に着実に下げ始め、1932年7月8日にダウ工業株平均が41.22を付けるまで止まらず、最高値と比べると89%の下落という衝撃的なものになった。これは19世紀に市場が始まって以来の最安値だった[20]

経済指標[編集]


ダウ工業株平均の推移、1928年-1930年
1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況下で市場崩壊が起こった。1929年8月までに株式仲介人達は小資本投資家達が買おうとしている株の額面価格の3分の2以上を日常的に貸していた。85億ドル以上が貸し出しとなり[21]、この総額はアメリカ合衆国で流通している貨幣総額を上回っていた[18]。上がり続ける株価がより多くの人々に投資を促すことになり、人々は株価がさらに上がることを期待した。投機によってさらに株価上昇を加速させ、バブル経済を作り出した。スタンダード・アンド・プアーズ評価株の平均株価収益率は1929年9月で32.6であり[22]、明らかに歴史的な標準より高かった。経済専門家の大半はこのできごとを近代経済史の中で最も劇的なことと見ていた。
1929年10月24日(ダウ工業株平均は9月3日に最高値381.17を付けたばかりだった)、市場は遂に崩壊し、恐慌的な売りが始まった。1931年、アメリカ合衆国上院にペコラ委員会が創設され、崩壊の原因を調査することになった。アメリカ合衆国議会は1933年グラス・スティーガル法を成立させ、預金と貸付を取り扱う商業銀行と、株式債券など有価証券の引受、発行および配布を行う投資銀行との分離を決めた。
1929年の大暴落を教訓として、世界中の株式市場は急速な下落の際には一時的に取引を停止する手段を決め、1929年の時のような恐慌的売却を防止すると主張した。しかし、半世紀後の1987年10月19日ブラックマンデーでは、1日だけの暴落ではあったが1929年の大暴落よりはるかに大きな株価暴落となり、ダウ工業株平均は22.6%下落した[14](市場はこのあと急速に回復し、わずか2日後には1933年以来となる1日での上昇幅を記録している)。

大暴落は大恐慌に影響したか[編集]

1929年の大暴落と世界恐慌は、20世紀の「最大の財政危機」だったといえる[23]
1929年10月の恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴として機能した[24]。1929年の株価大暴落は不安定な方向感覚の喪失とない合わさった恐怖を起こしたが、その衝撃は否定する心とともに急速に麻痺し、役人も大衆も妄想を抱いた[25]」「1929年10月24日と29日の株価暴落は、...日本を除き全ての金融市場で事実上瞬間的なものだった[26]。ウォール街の大暴落はアメリカ合衆国と世界の経済に大きな衝撃を与え、その直後から現在まで歴史学、経済学および政治学の分野で激しい論争の種となってきた。持ち株会社による悪用が1929年のウォール街の大暴落とそれに続く世界恐慌に繋がったと考える人々がいる[1]。多くの人々は株式市場というリスクあるものに投資することにあまりに熱心だった商業銀行の崩壊を非難してきた[27]
1929年の暴落は狂騒の20年代を震撼させ終わらせた[28]。経済史家チャールズ・キンドルバーガーによって暫定的に表現されたように、1929年には効果的に存在する最後の頼みの綱となる貸し手が居らず、もしそれが存在して適切に行動しておれば、金融危機の後に付いてくる景気後退の期間を短縮するキーになったであろう[26]。この大暴落はアメリカ合衆国にとって広範に拡大し長期間続くことになる一連の経過の始まりを記した。
大きな問題は1929年の大暴落が世界恐慌を引き起こしたのか[29]、あるいは信用取引が加速したバブル経済の破綻と単に時期が一致しただけか、ということである。株価の下落は倒産や、事業閉鎖、労働者の首切りなど経済不況となることを含み、厳しいマクロ経済的困難さを引き起こした。その結果として起こった失業率の上昇や不況は大暴落の直接の結果であると見られているが、不況に繋がった単一の出来事では決してない。その後に起きた出来事に最大級の影響を与えたと見られるのが通常である。それ故に、ウォール街の大暴落は世界恐慌を始めさせた経済の下降線を報せるものとして広く認められている。
本当かどうかは別として、その後の経過はほとんどあらゆる人々にとって深刻なものだった。学会の専門家の大半は大暴落のある1面には同意している。すなわち、それは1日で巨万の富を消失させ、即座に消費者の購買意欲を削いだことである[29]。このことで世界中で合衆国正貨(すなわちドル)の取り付けを起こし、連邦準備制度は利率を上げて最悪の事態にせざるを得なかった。4,000ほどの貸し手が最終的に追い詰められた。また、直近の約定価格を上回る水準でなければ空売りできないこととするアップティックルール[30]が、1929年の大暴落後に執行され、売り手相場では空売りして株価を下げることを防止するようになった[31]
多くの学会人は1929年の大暴落を一時的活況の新しい理論の一部である歴史プロセスの部分として見ている。ヨーゼフ・シュンペーターニコライ・コンドラチエフのような経済学者に拠れば、この大暴落は単に景気循環と呼ばれる継続するプロセスで起こったひとつの歴史的事件に過ぎないとしている。大暴落の影響は単に景気循環が次のレベルに進行する速度を速めたのだと言っている。
一方、ミルトン・フリードマンはアンナ・シュワルツとの共著、『アメリカ合衆国の金融史』で、「大不況」を深刻にしたのは景気循環の下降線、保護貿易主義あるいは1929年の株価大暴落ではなかったという主張を行っている。その代わりに国を深刻な不況に陥れたのは、1930年から1933年に続いた3波の恐慌の間に起きた金融システムの崩壊だった、と主張している[32]




世界恐慌

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世界恐慌(せかいきょうこう)とは、世界的規模で起きる経済恐慌(world economic crisis/panic)のことである[1]が、通史的には1929年に始まった経済不況を指し、大恐慌(The Great Depression)、世界大恐慌とも言われる。
当記事では、特に1929年から発生した大恐慌(The Great Depression)について詳述する。

概説[編集]

ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象を世界恐慌という[2]マルクス経済学では、資本主義諸国の経済の有機的連関によって、資本主義経済の矛盾も世界的に爆発的に広がる危険性を持つと捉える[3]
世界恐慌の最初の例として、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった恐慌英語版[4][5][6]が挙げられる。
上の分類における世界恐慌のもっとも代表的な例が当記事で後述する1929年にアメリカ合衆国ウォール街で起きたパニックをきっかけに世界各国を襲った大恐慌であり[7]、単に「世界恐慌」と書いてこの1929年の事件を表す場合もある。

1929年に始まった世界恐慌[編集]

1929年10月24日ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退が起きた。1929年10月24日は「暗黒の木曜日」(Black Thursday)として知られ、南北戦争に次ぐアメリカの悲劇といわれた。

背景[編集]

第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。
1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。
また、農業不況に加えて鉄道石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱が煽られ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、個人投資家も、信用取引により容易に借金が出来、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと[8]述べた。

展開[編集]


ダウ平均株価の指数を表すグラフ。1929年10月の「暗黒の木曜日」を境に株価は一気に下落している。
そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。
シカゴバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。
週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでなってしまった。当日の出来高は1638万3700株に達し(これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった)、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。
投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めていった。この日は火曜日だったため、後にこの日は「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれるようになった。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。
過剰生産によるアメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。
産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。

証券パニックから世界恐慌へ[編集]

第1次世界大戦後の米国経済の圧倒的な存在感(当時世界のの半分以上が米国に集まっていた)のため、一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされているが、バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している[9]
1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。
暴落の後、米国には金が流入していたが、FRBはこれを不胎化させ、国内のマネーストックの増大とは結び付けようとしなかった。これにより米国では金が流入しているにも関わらずマネーストックが減少し続けた。その為金本位制をとる各国は金の流出に対し、金融政策を米国のそれと順応させるを得ず(各国は金の流出を抑えるために金利を引き上げざるを得なかった)、不況は国際的に伝播していった。
特に金本位制を取っていたドイツやオーストリアや東欧諸国は十分な金準備を持たず、また第一次世界大戦とその後のインフレにより金融システムが極めて脆弱な状態であった。その為、米国やフランスへの金流出により金準備が底をついてしまい、金融危機が発生した。
大不況が世界に広まるきっかけとなったのは1931年5月11日オーストリアの大銀行クレジットアンシュタルト(Creditanstalt, 1855年ロスチャイルド男爵により設立。クレディ・アンシュタルトとも。)の破綻であったとされる。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖した。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。オーストリア向けの融資が焦げ付いた要因としては、3月の独墺関税同盟の暴露に対するフランス経済制裁により、オーストリア経済が弱体化したことが致命的であった。
クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。
当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は末永く戒めとして記憶されることになった(当時の大経済学者アーヴィング・フィッシャーエール大学教授の所論でもあった)。
金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルクイギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行1931年9月11日金本位制を停止し、第1次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。
特に1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた(金解禁1930年1月から1931年12月10日まで)。
(当時金価格は1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。戦後はニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定相場である。今1トロイオンスの地金は約8万円なので、$1億=現在金価値約4000億円相当と考えられる(2008年10月現在)。ただし、当時の経済規模を考えると10倍以上のインパクトがあったと思われる)

各国の状況[編集]


世界恐慌時の各国の一人あたり国民所得[10]

大恐慌により家を失い、流浪の身となった子供達

ニューディール政策の一環TVAの公共事業に従事する労働者
未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった[11]。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDP1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策を採ったアメリカは1936年には恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りし、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった[12]

アメリカ[編集]

共和党フーヴァー大統領古典派経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやくフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落[13]、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した[14]。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。
こうした中、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げて当選した民主党フランクリン・ルーズヴェルト大統領は公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法全国産業復興法を制定した。
フーバー政権の1930会計年度の歳出予算は対GDP比3.4%程度だったが、1934年にルーズベルト政権は10.7%まで引き上げた[15][16]
ただ、ニューディール政策はその後労使双方の反発があり、規模が縮小されるなどしたため1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほどの効果があったかについては経済学者の間で賛否両論が分かれている。多くの労働組合が賃金の切り上げを要求、実質賃金の切り上げ(ワグナー法)は他の大勢の労働者の解雇につながった。
1936年、すでにインフレ傾向にあったことを警戒したFRBは金融引き締めに転じ預金準備率を2倍に引き上げた。米国の債務残高はGDP比40%という前代未聞の水準に達したため、ルーズベルト大統領とヘンリー・モーゲンソー財務長官は財政均衡に舵をきり、財政健全化を進めようとした。1936-38年にはGDP比5.5%の財政赤字を解消した。しかしこの1937年の財政支出大幅削減予算により1938年は不況になり、実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇し[17]、「ルーズベルト不況」と呼ばれることになる。ニューディール期間中財政支出赤字の対GNP比が10%を超えた年は2度である。アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。太平洋戦争が起こり、連邦政府はようやく見境のない財政支出を開始し、また国民も戦費国債の購入で積極財政を強力に支援した。1943年には赤字が30%を超えたが失業率は41年の9.1%から44年には1.2%に下がった[18]。しかしダウ平均株価は1954年11月まで1929年の水準に戻ることはなかった。

ルーズヴェルトのニューディール政策によりアメリカの経済は一時的ではあるが回復傾向に転じた。写真は活気が戻りつつある1935年のニューヨーク

イギリス[編集]

労働党マクドナルド内閣失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成、これを母体にブロック経済スターリング・ブロック)を推し進めていくことになる(ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。

日本[編集]

第一次世界大戦の戦勝国の1国となったものの、その後の恐慌、関東大震災昭和金融恐慌昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、1935年まで続いた冷害・凶作、昭和三陸津波のために疲弊した農村では娘を売る身売り欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。(参照:金解禁
高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、日本の統治下となっていた台湾や、日本の支援を受け建国されたばかりの満州国などアジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。日中戦争がはじまった1937年には重工業の比率が軽工業を上回った。さらには1940年には鉱工業生産・国民所得が恐慌前の2倍以上となり、大東亜戦争におけるイギリスやアメリカ、オーストラリアなどに対する優勢が続いていた1942年夏まで景気拡大が続いた。ただし戦時下の統制経済下であり、生活物資不足となっていた。
1931年12月の高橋蔵相就任以来、積極的な財政支出政策(ケインズ政策)により日本の経済活動は順調に回復を見せたが1935年頃には赤字国債増発にともなうインフレ傾向が明確になりはじめ、昭和11年(1936年)年度予算編成は財政史上でも特筆される異様なものとなった。高橋(岡田内閣)は公債漸減政策を基本方針とした予算編成方針を1935年6月25日に閣議了解を取り付けたものの、軍部の熾烈な反発にあい、大蔵省の公債追加発行はしないとの方針は維持されたものの特別会計その他の組み換えで大幅な軍備増強予算となった。結局この予算は議会に提出されたものの、翌1936年1月21日に内閣不信任案が提出され議会が解散し不成立となった。実行予算準備中の2月26日に二・二六事件が発生し高橋の公債漸減主義は放棄されることになった[19]
経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立を助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)をもとに包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。1930年代には数多くの大規模プロジェクトが実施された[20][21][22][23][24][25][26][27][28][29]




あんこくのもくようび

暗黒の木曜日

 
1929年10月24日木曜日に起こったアメリカ株の大暴落のこと。そこから発展し、世界的規模のひどい不景気のことを意味する。第一次世界大戦後、重工業の発達などに伴う商品の大量生産や、農業の機械化による過剰生産により、順調に値上がりしていたニューヨーク工業株30種平均(ダウ平均)が底なしとも言える大幅な下落に転じ、アメリカ経済が未曾有の不況へと落ち込んだ。ニューヨーク株式市場で大量の株が売りに出されたのである。ウォール街の仲買人たちの協議の末、モルガン銀行が中心となって買い支えを決意し、1億3000万ドルが投じられて一旦は持ち直した。しかし、週明けには再び急落、10月29日の火曜日(暗黒の火曜日)には1600万株以上が売りに出され、株式取引所の機能が停止するまでの事態となり、市場が崩壊した。それが世界にも波及、世界大恐慌へと発展した。異常気象による農業不況や、商品が大量に売れ残るようになる事態も重なり、失業者が街にあふれる時代となった。この恐慌の解決策としては、植民地を持っていたフランスやイギリスではブロック経済が、アメリカではルーズベルト大統領によりニューディール政策が行われた。フランス公共交通機関の一斉ストライキなど、最近でも、「暗黒の木曜日」と評される事態が起こっている。

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