2013年10月13日日曜日

ロスチャイルド家

ロスチャイルド家

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ロスチャイルド家(ロートシルト家)の紋章。この紋章は1822年にオーストリア政府(ハプスブルク家)より、男爵の称号とともに授けられた。盾の中には5本の矢を持った手が描かれ、創始者の5人の息子が築いた5つの家系を象徴している。盾の下には、ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)という銘が刻まれている。[1]
ロスチャイルド家(Rothschild、「赤い」の意味、「ロスチャイルド」は英語読み)は、元来ユダヤ系ドイツ人の一族であり、18世紀からヨーロッパの各地で銀行を設立し、現在に至っている。現在、ロスチャイルド家が営む事業は主にM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心である。ドイツ語読みで「ロートシルト」、フランス語読みで「ロチルド」と呼び習わすこともある。

歴史[編集]

マイアー・アムシェル以前[編集]

Waddesdon Manor(英語) イギリスバッキンガムシャー。1889年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘
ロートシルト家(ロスチャイルド家)は神聖ローマ帝国帝国自由都市フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で暮らすユダヤ人商人の家系である[2]
フランクフルト・ユダヤ人は1462年以来ゲットーに押し込められてきた。また法律・社会的に様々な制約を受け、職業は商品もしくは金銭を扱う仕事しか選べなかった[3][4]。ロートシルト家も代々商人の家柄だが、マイアーの代までは小商人に過ぎず、生活も貧しかった[2]
ファミリーネームはもともと「バウアー」もしくは「ハーン」と呼ばれていたが[5]、「赤い盾(ロートシルト)」の付いた家で暮らすようになってからロートシルトと呼ばれるようになった。そこから引っ越した後もそのファミリーネームで呼ばれ続けた[6]。しかしフランクフルト・ユダヤ人が法的にファミリーネームを得たのは1807年のことであり、それ以前のものはあくまで通称である[5]

ヘッセン・カッセル方伯の御用商人[編集]

Schloss Hinterleiten(ドイツ語) オーストリアの ニーダーエスターライヒ。1887年建造。オーストリアの分家によって建てられた別荘
ロートシルト家を勃興させたのはマイアー・ロートシルト(1744-1812年)である。彼は1760年代から古銭商を始め、熱心な古銭収集家だったヘッセン=カッセル方伯家皇太子ヴィルヘルムから目をかけられるようになり、1769年にはその宮廷御用商人に任じられた[7][8]
ヴィルヘルム皇太子は領内の若者を傭兵にして植民地戦争に人出が欲しいイギリスに貸し出す傭兵業を営んでおり、その傭兵業によりヨーロッパ随一の金持ちになっていた(1785年にヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となると財産継承で更に大金持ちになった)。両替商を兼業するようになっていたマイアー・アムシェルもヴィルヘルム9世の事業に関わらせてもらい、イギリスで振り出された為替手形の現金化を担当した。これによって大きな成功を掴んだ[9][10]
後には長男アムシェルと次男ザロモンをヘッセン・カッセル方伯家のヴィルヘルムシェーヘ城ドイツ語版に勤務させるようになり、彼らの努力もあってロートシルト銀行は1789年からヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名された[11]
1790年代にはロートシルト家の収入は信用供与と貸付が主となっており、商人というより銀行家に転じていた。その活動範囲もドイツに留まらず、ヨーロッパ中へと広がっていった[12]

ナポレオン戦争[編集]

Palais Freiherr Albert von Rothschild(英語) オーストリアのウィーン。1884年建造。オーストリアの分家によって建てられた邸宅
Hôtel Salomon de Rothschild(英語)フランスのパリ。1878年建造。フランスの分家によって建てられた邸宅
1789年にフランスで発生したフランス革命を恐れたヨーロッパ諸国の君主たちはフランスに宣戦布告し、1792年から1815年までフランス革命戦争ナポレオン戦争が勃発した。だが自由主義をスローガンに掲げるフランス軍は征服地でユダヤ人解放政策を実施したため、ドイツ・ユダヤ人にとっては封建主義的束縛から解放されるチャンスであった。ロートシルト家にとってもヘッセン・カッセル方伯の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却するきっかけになった[13]
戦争の混乱の中、ドイツでは綿製品が不足して価格が高騰した。これに目を付けたマイアーの三男ネイサンは1799年からイギリス・マンチェスターに常駐し、産業革命で大量生産されていた綿製品を安く買い付けてドイツに送って莫大な利益を上げるようになった[14]。彼はやがてロンドン金融界の若き寵児となった[15]
1806年ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によって神聖ローマ帝国が滅ぼされたことはロートシルト家の更なる繁栄につながった。フランスの侵攻に抵抗したドイツ小邦国は次々と取り潰されたが、その一人が1803年以来ヘッセン選帝侯になっていたヴィルヘルム1世(旧ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世)だった。彼は財産を残したまま亡命することを余儀なくされたが、この時に残された巨額の財産の管理権・事業権を独占的に任されたのがロートシルト家だった。ロートシルト家はこれによって投資を大幅に拡大できるようになった[16]
マイアーはフランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主カール・テオドール・フォン・ダールベルク公、フランクフルトの郵便制度を独占しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥーン・ウント・タクシスドイツ語版侯などと親密な関係を深めていき、情報面で他の銀行の優位に立ち、大きな成功に繋げていった[17]
またこの時期にマイアーはフランクフルト・ユダヤ人の解放を推進する役割も果たした。「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったナポレオン法典を一般市民法としてフランクフルトに導入させるためのダールベルク公との交渉に尽力し、ダールベルク公に44万グルデンを支払って実現に漕ぎつけた(ナポレオン敗退後に自由都市の地位を取り戻したフランクフルト市によって取り消されてしまうが)[18]

マイアーの死去と五家の創設[編集]

Villa Rothschild(ドイツ語) ドイツのフランクフルト近郊。1894年建造。ドイツの分家によって建てられた別荘。現在は高級ホテルとして使用されている
Villa Ephrussi de Rothschild(英語) フランスのコート・ダジュール。1912年建造。フランスの分家によって建てられた別荘
Halton House(英語) イギリスのバッキンガムシャー。1883年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘
1812年にマイアーは死去した。彼は遺言の中で5つの訓令を残した。1つはロートシルト銀行の重役は一族で占めること、1つは事業への参加は男子相続人のみにすること、1つは一族に過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が継ぐこと、1つは婚姻はロートシルト一族内で行うこと、1つは事業内容の秘密厳守であった[19]
マイアーは何よりも一族の団結を望んでいた。ロートシルト家の家紋に刻まれた「協調(concordia)」もマイアーの遺訓であり、その精神は彼の5人の息子たち、長男アムシェル(1773-1855)、次男ザロモン(1774-1855)、三男ネイサン(1777-1836)、四男カール(1788-1855)、五男ヤーコプ(1792-1868)にも受け継がれた[20]
父の遺訓に従ってフランクフルトの事業は長男アムシェルが全て継承し、他の4兄弟はそれぞれ別の国々で事業を開始することになった。ウィーンは次男ザロモンが、ロンドンは三男ネイサンが、ナポリは四男カールが、パリは五男ヤーコプがそれぞれ担当した[21]
五家は相互連絡を迅速に行えるよう情報伝達体制の強化に努めた。独自の駅伝網を確保し[22]伝書鳩も飼育して緊急時にはこれを活用した。またその手紙は機密保持のためヘブライ語を織り交ぜていた。こうした素早い情報収集が可能となる体制作りがロスチャイルド家が他の銀行や商人に対して優位に立つことを可能としたといえる。これをうまく活用して巨額の利益を上げた例が、ワーテルローの戦いの際にロンドン家当主ネイサンが、ナポレオンの敗戦をいち早く察知し、素早くフランを売ってポンドに変えたことだった[23]

ウィーン体制下[編集]

ナポレオン敗退後、フランス革命以前の旧体制が復古し、フランスに領地を奪われた君主や貴族たちが領地を回復させた(ウィーン体制)。銀行業でも旧勢力が復古し、1815年11月のパリ条約に定められたフランスの賠償金の調達からロスチャイルド家は弾き出された[24]
ついで1818年10月の同盟軍のフランス撤兵と賠償金分配を話し合うアーヘン会議でもロスチャイルド家は弾き出されそうだったが、この時にはフランス公債を大量に買って一気に売り払うという圧力をかけたことが功を奏し、オーストリア帝国宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから会議に招かれた。以降メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられ、また五本の矢を握るデザインの紋章も与えられた[25]。以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von」や「de」を入れることになった[26]
この時期、ロスチャイルド家は鉄道分野には熱心な投資を行っている。ウィーン家のザロモンは1835年に皇帝の認可を得て鉄道会社を創設し、中欧の鉄道網整備に尽くした。フランクフルト家のアムシェルも中部ドイツ鉄道、バイエルン東鉄道、ライン川鉄道等の整備に尽くした。パリ家のジェームズもフランスや独立したばかりのベルギーの鉄道敷設に尽力したが、同じユダヤ系財閥のペレール兄弟フランス語版と競争になった[27]

帝政ロシアとの闘争とバクー油田[編集]

フェリエール城(英語)セーヌ=エ=マルヌ県フェリエール=アン=ブリ。1854年建造。フランスの分家によって建てられた別荘。フランスにおいて19世紀の最も大きな別荘であり、30 km² の面積を占める
Kasteel de Haar(英語) オランダのハールザイレンス。元は12世紀に建てられた城だったが、ロスチャイルド家によって1892年から1912年にかけて再建された
ロスチャイルド家はユダヤ人迫害を推進するロシア帝国とは敵対的立場を取った。
1854年のクリミア戦争の際にはライオネル・ド・ロスチャイルドはイギリス政府の対ロシア戦争を金銭面から支援すべく、1600万ポンドもの英国公債を公募した[28]
また1904年の日露戦争では、初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドがニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けたのを機に日本の最初の戦時公債の起債の下請けを行った。3回目と4回目の起債ではロンドンとパリのロスチャイルド家がそろって発行団となった[29]
一方でパリ家当主アルフォンスフランス語版は1883年に財政困窮に陥ったロシア政府の公債発行に協力してやっており、その見返りとしてバクー油田の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。アルフォンスはバクー油田の開発にあたっていた科学者・企業家アルフレッド・ノーベルと協力して開発を進めた。また1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却し、同社の大株主に転じた。自らの油田を売ってでもヨーロッパ石油産業の再編を進めることでロックフェラースタンダード石油がヨーロッパに進出してくるのを阻止する狙いがあった。また1917年にロシア革命が起こってツァーリ体制が崩壊し、ボルシェヴィキ政権が外国資産を全て接収したが、ロスチャイルド家はこの時に売却しておいたおかげでロシア革命による打撃を受けずにすんだ[30]

衰退[編集]

Palais Nathaniel Rothschild(ドイツ語)オーストリア のウィーン。1878年建造。オーストリアの分家によって建てられた邸宅
Rothschildschloss(ドイツ語) オーストリアのヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス。元は13世紀に建てられた中世の城だったが、1875年にオーストリアの分家によって取得された
19世紀後半の相次ぐ戦争と各国での国家主義の高揚により、ロスチャイルド家の衰退が始まった。この段階でもロンドンとパリのロスチャイルド家は繁栄していたが、フランクフルトの本家は発祥の地フランクフルトに固執して新しい金融の中心地ベルリンに移ろうとしなかったために衰退し、ウィーンのロスチャイルド家もハプスブルク家の没落とともに没落していった。ナポリのロスチャイルド家に至っては危機的状況に陥っていた。初代マイヤーは「兄弟力を合わせるように」という遺訓を残しており、子孫たちもこれまでその遺訓を守って、5家協力してやってきたが、国家主義の高揚はその協力の維持を難しくしていた[31]1901年にフランクフルトの本家が断絶するとロスチャイルド家の協力関係はいよいよ希薄となっていった[32]第一次世界大戦でもロスチャイルド家は同じ一族で敵味方に分かれて戦う羽目となった[33]
最も栄えるロンドン・ロスチャイルド家も、税制変更が行われた第一次世界大戦中に初代ロスチャイルド男爵ナサニエルとその弟二人が相次いで死去する不幸があったことで、その財産に莫大な相続税をかけられて衰退しはじめた。ロスチャイルド家の銀行は株式形態ではなく個人所有だったためである。19世紀に手に入れた豪邸を次々と手放すことを余儀なくされた[34]

ナチスの脅威[編集]

Grüneburgschlößchen(ドイツ語) ドイツのフランクフルト。 1845年建造。 ドイツの分家によって建てられた邸宅。この建物は1944年に連合国軍の爆撃によって破壊された
Château de Montvillargenne(フランス語) フランスのオワーズ。1900年建造。フランスの分家によって建てられた邸宅
19世紀に栄華を誇ったロスチャイルド家も20世紀には衰退の一途をたどり、実際の財力より名前の威光ばかりが先行するイメージの存在と化していた[32]。しかし「国際金融ユダヤ人」を全ての悪の元凶とするナチス・ドイツにとってはそのイメージは反ユダヤ主義プロパガンダの格好の材料であり、ロスチャイルド家は徹底的に悪の黒幕扱いにされた。1940年にはロスチャイルド家の「世界制覇の陰謀」を描く映画『ロスチャイルド家』がドイツで公開された[35]
1938年にオーストリアがドイツに併合された際には、ウィーン分家の当主ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵ドイツ語版ゲシュタポに逮捕された。彼は全財産の没収に同意する代わりに釈放されたが、すぐにアメリカへ亡命し、第二次世界大戦後もウィーンに戻らなかった。そのためウィーン・ロスチャイルド家はこれをもって絶えた(戦後オーストリア政府はナチスが奪ったルイの財産をルイに返還しているが、ルイはその全額を寄付している)[36]
1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻でパリが陥落すると、パリ・ロスチャイルド家の銀行や邸宅もナチスに接収された。またパリ・ロスチャイルド家は美術品の収集で知られており、陥落直前に美術品の外国移送に励んだが、移送できなかったものは陥落後にヒトラーによって押収された。パリ・ロスチャイルド家の人々の多くはイギリスへ亡命し、フランス家ロチルド家の御曹司ギード・ゴール自由フランス軍に入隊して自由フランス軍を財政的に支えた[37]。戦後ギーはド・ゴール派の政治家、とりわけジョルジュ・ポンピドゥーと親しくし、彼の協力を得てパリ・ロスチャイルド家の再興に成功している[38]
ロンドン家は直接の被害を免れたが、1940年から1941年のイギリス本土空襲時には子供たちはワドスドン城ヘ疎開した。ドイツやオーストリアから逃れてきていた孤児たちも預かり、この城に一緒に収容している[39]。戦時中大陸にいて逃げ遅れ、ナチスの手にかかったロスチャイルド家の者が2人出た。フランス家のフィリップの妻エリザベート英語版とロンドン家の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの叔母にあたるアランカだった。前者はラーフェンスブリュック強制収容所、後者はブーヘンヴァルト強制収容所で落命している[40]
第二次世界大戦が終わった時、生き残っているロスチャイルド家はロンドンとパリだけであった[41]。大戦の影響でロスチャイルド家の衰退は更に進んだ。ロンドン家もパリ家も収入が大きく落ち、出費は増える一方で更に多くの豪邸を売り払うことを余儀なくされた[42]

戦後復興[編集]

Spencer House(英語) イギリスの ロンドン。スペンサー伯爵家の代々の邸宅。現在、イギリスの分家が99年の契約でこの邸宅を借り、ロスチャイルド卿の営む投資事業会社RIT・キャピタル・パートナーズ英語版の本拠地として使用している
ロンドン家の戦後復興はロンドン家分家のアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルド英語版を中心にして行われた。ロンドン家本家の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルドとはN・M・ロスチャイルド&サンズの株を6:2という割合で配分しているため、分家のアンソニーが経営を主導する形になった[43]。第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの息子である第4代ロスチャイルド男爵ジェイコブはアンソニーの息子であるエヴェリン英語版と経営方針が合わず、1980年にN・M・ロスチャイルド&サンズを退社してRIT・キャピタル・パートナーズ英語版を立ち上げている[44]
パリ家の戦後復興は1949年に正式に当主となったギー・ド・ロチルドを中心にして行われた。戦後フランスの最高指導者とも言うべきド・ゴール将軍との親密な関係を深めて、再び投資事業を再開していった。1981年に社会党党首フランソワ・ミッテランが大統領になった際に一時ロチルド銀行が国有化されたが、ミッテランの社会主義政策の失敗後、ギーの息子ダヴィド・ド・ロチルドフランス語版の指導の下に再建され、今日にいたっている[45][46]
2003年にはロンドン家とパリ家の両銀行が統合されたロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設された[47]

現在[編集]

現在、ロスチャイルド家が営む主な金融グループは3つあり、それぞれ別れて事業を営んでいる。
一つ目はEdmond de Rothschild Groupである。Edmond de Rothschild Groupはスイスに本拠を置く金融グループであり、傘下に、スイスを中心に世界中で富裕層の資産運用(プライベート・バンキング)を行うBanque privée Edmond de Rothschildや、フランスを中心に世界中でワイナリーを営むCompagnie Vinicole Baron Edmond de Rothschildなどがある。グループの傘下企業の一つBanque privée Edmond de Rothschildスイス証券取引所に上場しており、2011年においてその総資産は140.2億スイスフランである。[48]
二つ目はThe Rothschild Groupである。The Rothschild Groupはフランスのパリに本拠を置くParis Orléansを金融持ち株会社とし、その傘下にフランスの投資銀行Rothschild & Cie Banqueやイギリスの投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズやスイスを中心に活動するプライベートバンクRothschild Bankなどをもつ。[49]ヨーロッパを中心に45カ国にオフィスを持ち、事業はM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心である。特にM&Aでは取り扱い件数がヨーロッパで一番多い。The Rothschild Groupの金融持ち株会社であるParis Orléansはパリ証券取引所に上場しており、2012年においてその総資産は89.2億ユーロである。[50]
Mentmore Towers(英語) イギリスのバッキンガムシャー。 1854年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘
三つ目はRIT Capital Partnersである。RIT Capital Patnersは1980年に設立された、ロンドンのスペンサーハウスに本拠を置くInvestment Trustであり、アメリカやイギリスを中心として世界中の会社に投資を行っている。RIT Capital Partnersはイギリスで最大規模のInvestment Trustであり、イギリスのトップ5の一つに数えられている[51]。また、Rockefeller Financial Services社と資産運用事業で提携していることでも知られている[52]。RIT Capital Patnersはロンドン証券取引所に上場しており、2012年において総資産は22.1億ポンドである[53]。(Investment Trustはクローズド・エンド型の投資信託の種類の一つである。一般の投資信託と違い、資本市場で資金を集め、その資金をその投資会社の方針により、ヘッジファンドやプライベート・エクイティ・ファンドなど様々な商品に投資する。世界の中でも特にイギリスで発展している。)
なお、3つの金融グループはそれぞれの分野で傑出した業績を誇るが、それぞれの国においてより規模の大きな競合企業が存在する[54][55][51]
現在のロスチャイルド家を代表する人物として、Edmond de Rothschild Groupを統括するバンジャマンフランス語版、The Rothschild Groupを統括するダヴィドフランス語版、RIT Capital Patnersを統括する第4代ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルドらがいる。ロスチャイルド家の7代目の後継者は、ダヴィッドの息子、アレクサンドル・ド・ロチルドとなる予定である。

ロスチャイルド家とワイン[編集]

シャトー・ラフィット・ロートシルト(日本語) フランスのボルドー。ロスチャイルド家が営むシャトー(ぶどう園)の一つ。フランスのボルドー地方の五大シャトーの一つで、ここで作られるワインは高い格式を持つ
ムートン・カデのラベル
ボルドーの赤ワイン生産者として、最高の格付けを得ている「5大シャトー」と呼ばれるブドウ園のうち2つが、ロスチャイルド家の所有となっている。そのうちシャトー・ムートン・ロートシルトは、ネイサン・ロスチャイルドの3男ナサニエルが1853年に購入したものであり、シャトー・ラフィット・ロートシルトはマイヤー・ロスチャイルドの5男ジェームスが1868年に購入したものである。1855年の格付けではラフィットが1級の評価を得たものの、ムートンは2級に甘んじた。だが、ナサニエルの曾孫のフィリップの努力により、1973年、異例の格付け見直しによりムートンも1級の地位を獲得する。
その後もフィリップとその一族は、カリフォルニアの「オーパス・ワン」、チリの「アルマヴィーヴァ」などのワインを手がけ、いずれも高い評価を獲得している。
フィリップはシャトー・ムートンを最高級のワイン・ブランドとして確立させる一方、1930年代には庶民にも手軽に飲める高品質のワインブランド「ムートン・カデ」を創り出した。シャトー・ムートンの技術と経験で造られた新作ワインが手頃な値段で楽しめるとあって、ムートン・カデの需要は徐々に高まっていった。今日ではムートン・カデはフランスで最もよく飲まれているワインとなっている[56]
世界中の人に愛されているブランドでもあり、2004年には世界で1500万本販売された[57]。日本ではワイン専門店のみならずスーパーなどでも販売されており、日本人にとっても手軽に飲めるワインとなっている。


ロスチャイルド家系図[編集]

家祖と「五本の矢」[編集]

Mayer Amschel Rothschild.jpg
マイアー・アムシェル
(1743-1812)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Amschel Mayer Rothschild.jpg
アムシェル・マイアー
(1773-1855)
フランクフルト家
Salomon Rothschild.jpg
ザロモン・マイアー
(1774-1855)
ウィーン家
Nathan Rothschild.jpg
ネイサン・メイアー
(1777-1836)
ロンドン家
Carl Mayer Rothschild.jpg
カール・マイアー
(1788-1855)
ナポリ家
James de Rothschild.jpg
ジャコブ・マイエール
(1792-1868)
パリ家

フランクフルト家(1901年閉鎖)[編集]

ウィーン家(1938年閉鎖)[編集]

ロンドン家[編集]

ナポリ家(1901年閉鎖)[編集]

パリ家[編集]

ロスチャイルドに関する著作[編集]

Ascott House(英語) イギリスのバッキンガムシャー 元は農家の家であったが、1873年にイギリスの分家によって取得されて増築され、ロスチャイルド家の別荘となった。広い敷地を持ち、その敷地面積は13 km² になる
  • ロスチャイルド家 世界を動かした金融王国 中木康夫 誠文堂新光社, 1960
  • ロスチャイルド ヨーロッパ金融界の謎の王国 ジャン・ブーヴィエ 井上隆一郎訳 河出書房新社 1969 世界の企業家
  • フレデリック・モートン『ロスチャイルド王国』高原富保訳、新潮選書、1975年
  • ギー・ド・ロスチャイルド『ロスチャイルド自伝』酒井傳六訳、新潮社、1990年
  • 広瀬隆『赤い楯 ロスチャイルドの謎』集英社、1991年 のち文庫
  • ロスチャイルド世界金権王朝 一極世界支配の最奥を抉る! ジョージ・アームストロング 馬野周二監訳 徳間書店, 1993.2.
  • デリク・ウィルソン『ロスチャイルド──富と権力の物語』本橋たまき訳、新潮文庫、1995年
  • 横山三四郎『ロスチャイルド家──ユダヤ国際財閥の興亡』講談社現代新書、1995年
  • ロスチャイルド自伝 実り豊かな人生 エドマンド・デ・ロスチャイルド 古川修訳. 中央公論新社 1999.10.
  • ロスチャイルド夫人の上流生活術 ナディーヌ・ロスチャイルド 伊藤緋紗子訳. PHP研究所, 2001.11.
  • ロスチャイルド家の上流恋愛作法 愛される女性たちの秘密 ナディーヌ・ロスチャイルド 鳥取絹子訳 ベストセラーズ, 2002.9.
  • ヨアヒム・クルツ『ロスチャイルド家と最高のワイン―名門金融一族の権力、富、歴史』瀬野文教訳、日本経済新聞出版社、2007年
  • ユースタス・マリンズ『世界権力構造の秘密』成甲書房、2007年
  • 世界最大のタブー『ロスチャイルドの密謀』ジョンコールマン博士+太田龍 著、成甲書房、2007年
  • 富の王国ロスチャイルド 池内紀 東洋経済新報社, 2008.12.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ An historic motto of Rothschild family
  2. ^ a b モートン(1975) p.22
  3. ^ ブーヴィエ(1969) p.15
  4. ^ クルツ(2007) p.21-22
  5. ^ a b クルツ(2007) p.25
  6. ^ モートン(1975) p.23
  7. ^ 横山(1995) p.58-60
  8. ^ クルツ(2007) p.27-28
  9. ^ 横山(1995) p.58-60
  10. ^ クルツ(2007) p.34-35
  11. ^ 横山(1995) p.61
  12. ^ クルツ(2007) p.30-31
  13. ^ クルツ(2007) p.32/36
  14. ^ 横山(1995) p.62
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  16. ^ クルツ(2007) p.33/36
  17. ^ クルツ(2007) p.36-37
  18. ^ 小倉・大沢(1994) p.128/142
  19. ^ クルツ(2007) p.42
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  21. ^ 池内(2008) p.42-43
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外部リンク[編集]

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